一人の男が、幾多の光が群れ飛ぶ幻光河に、穏やかな瞳を向けていた。 手に携えられている、繊細な造りの杖。それが、彼が特別な存在──召喚士──であることを示している。 一刻を争うべきものであると知らぬものはない旅にもかかわらずこの地に足を止めているのは、彼の前に何の予兆もなく、降って湧いたかのように姿を現した赤子が理由だった。 その稚き者は、現在彼のガードたちの手によって、保護を受けている。 立木の根元に座り込む二つの人影。年かさの方の男が、慣れた手つきで赤ん坊の襁褓を換えていた。 何事も驚くほど器用にやってのける男であったが、乳児の世話までそつなくこなすその姿に、あらためて感服する。 訝しく思った召喚士が問いただしてみれば、べた惚れの奥方に小さな息子の世話を押しつけられているうちに、というのが当人の弁。 その男は手を休めることなく、仲間に向かって唾を飛ばさんばかりの勢いで喋り続けている。 いささか辟易した面もちで傍らに座する者はまだ若い。 結婚すら意識の埒外に置いている若者にとって、赤ん坊は全く未知の存在。 畢竟、世話は全面的に隣の男へ託すこととなる。 その秀麗な眉目がこの上ないほど顰められているのは、大方隣に座る男が、到底余人に聞かせるも憚られるような、卑猥な冗談を口走ったに相違ない・・・つまるところ、召喚士の見慣れた、いつもの光景であった。
生まれも、育ちも。そして年齢から性格までが大きく異なる守護者達。 そんな彼らの唯一の共通点は、卓越した剣の技。こと魔物との戦闘になると、目の覚めるようなぴたりと息のあった動きを見せる。 この二人がいる限り、旅の中途で倒れるようなことはよもやあるまい。 召喚士がそう確信するまでに、さほど長い時間は必要としなかった。
彼はふと、奇妙な感慨にとらわれる。 今からほぼ十年の昔。一人の女性と出会い、自らの運命が大きく弧を描いた瞬間に於いても、不思議な赤子の存在があった。 当時を思い返した彼は、今となっては知る者も少ないはずの、その破天荒ぶりに失笑を禁じ得ない。 自分を無二の人格者と信じ、みじんも疑わぬ若者がその事を知ったら、一体彼はどんな表情をするのだろうか。 過去を再現する幻光虫の影響か。召喚士の精神は軽々と時の流れを乗り越え、かつての己の姿を鮮やかに思い描いていた。
突然、ドアがけたたましい音をたてて叩かれた。 開けずともわかる。常人離れしたあの力・・・人一倍お堅い頭をも併せ持つ、ケルク僧官に違いない。 それにしても、何とも間の悪いこと。私は大きく舌打ちすると居合わせた客人たちの肩を抱き寄せ、入室をうながした。 「貴様という奴は・・・!!」 無粋な乱入者はそう言ったきり、後が続けられない様子。ヒトの倍はありそうな拳がわなわなと震え、獅子の貌が憤怒に歪む。 「この神聖な寺院に、遊び女など連れ込みおって・・・!」
頬や首筋についた脂粉をわざとゆっくり拭うと、私は兄弟子を見上げた。 「遊び女とは失礼ですね。何より彼女たちは自身の労働の対価として金を受け取っています。民からの布施でのうのうと暮らす、我々とは違うんですよ?」 房を転び出てゆく女たちに、獣人は背筋が凍りつくような一瞥を投げかける。憤懣やるかたないといった態度を隠そうともせず、それでも彼は辛うじて用件を口にした。 「忘れたか?これから“アルベド族捜査”が始まる。」 「・・・すみませんが、すっかり忘れていましたね。それにしても、寺院もご苦労なことです。素直に“アルベド族狩り”と言えばいいものを・・・肥大した組織は、体面を取り繕うのも楽ではないということでしょうか?」
“アルベド族捜査”とは、スピラの民には秘中の秘とされている、寺院の最重要機密事項だ。 エボン寺院は僧兵を使い、少なくともここ数十年に渡って、秘密裡にアルベド族の集落を襲撃、時として彼らを監禁している。前者はその支配地域を広げさせないため、後者は機械の知識吸収のために。 そして教義として禁じているはずの技術の成果を、当たり前のように享受する寺院。あまりの矛盾に、吐き気すら覚える。 寺院なぞ、糞食らえだ。そう毒づくと同時に湧き上がってくるのは、お定まりの自己嫌悪。 ・・・では、その寺院に寄生して生きる私は一体何者なのだ?
怠惰な夢を破られてから半時ほどのち。私はマカラーニャの森で、一人所在なげに歩を進めていた。 ベベルからは目と鼻の先であるこの付近で、アルベド族が目撃されたという情報が入ったのはつい昨日のことである。 仮に事実とするならば、まったくもって由々しきこと。一刻も早い掃討をということで、今回は不測の事態に備え、僧官としては比較的腕の立つ私とケルクが同行していた。 ・・・というのはあくまで表向きの話。あわよくば寺院の鼻つまみ者と、何かとそりが合わぬ異種族の僧官とを一度きにやっかい払いできれば、という上層部の期待も見え隠れしている。
私個人がアルベド族と事を構えねばならぬ謂われはない。 そして天涯孤独のこの身には、あのロンゾのように背負って立たねばならぬ一族の期待も、誇りとやらもない。 売られた喧嘩は常々きっちり買わせて頂いている私だ。寺院の思惟に諾々と従うのもまた業腹、と思う気持ちが沸き上がる。 浅はかにもそう考え、さりげなく単独行動をとっていたのが仇となった。 唐突に揺れた立木の音に振り向く間もなく、側頭部に小さな固いものが強く押しつけられる。 ・・・不覚であった。目線を精一杯左へと移動させると、頭から膝頭まで届く布を被った者が、細長い棒を押し当てている。 その武器の威力は無論未知数だが、ひしひしと伝わってくる非友好的な空気。もとより魔物ならばこんな手の込んだ真似はしない。 だがそろそろと両手を挙げた私に、彼は思いもよらぬことを聞いてきた。 「このあたりに、乳の出る女はいるか。」
「は?」 「乳の出る女を知っているかと聞いている!」 くぐもった声だった。 間違いなく私の頭に物騒なものを押しつけている者が発しているにもかかわらず、あたかも霧の彼方から聞こえてくるような。 そしてそのよどみのない口調に、さらに疑惑が深まる。書物を丸読みしたような正確すぎる文法に、却って違和感を感じるのだ。 アルベドと呼ばれ、異なる言語と禁忌の機械を操る民であることは薄々と想像がついてきた。
「・・・生憎、私の知り合いにそのような女性はおらぬ。」 人家もないこの付近では、たとえ知り合いでなくとも望み薄だろうが。 「そうか・・・。ならば、お前に用はない。」 言葉と同時にガリリ、と金属を摺り合わせるような、耳障りな音が聞こえた。 その剣呑な響きに、とっさに命の危険を感じた私は、 「ま、待て!・・・女性に心当たりはないが・・・」 気がつくと、そう叫んでいた。糖蜜ならば持っている、と。 「トウミツ?」 「ああ。それを水で溶けば、乳の代わりになるはずだ。・・・あくまで一時しのぎだが。」 指示に従い森の道を外れ、茂みをかき分けて進むと、うまい具合に雨風をしのげそうな場所に出る。 彼は武器を放り出して木のうろに駆け寄ると、中から手妻のように一人の赤ん坊を取り出してみせた。 無造作に投げ出された武器を横目で見つめ、私の心は定まった。 この者は、断じて危険ではないと。
手持ちの布きれを清め、よじった先端を水で溶いた蜜にひたす。 もったぶった手真似で赤ん坊を連れてこさせ──とは言え子供の世話などしたことのない私は緊張の連続だったのだが──小さな口元に近づけると想像以上の力で吸いつき、ぐいぐいと飲み下してゆく。 やがて腹の満ちた赤ん坊が寝息を立て始めると、私たちは同時に安堵の息を吐き出した。 次にかけられた声に、既に警戒心は感じられなかった。 「流石はエボンの僧官。その知識は教えのみにとどまらぬのだな。」 よもや褒められるとは思わなかった。 何を急に立ち上がるのかと思い見上げれば、かちゃかちゃと装身具を外しだす。 見慣れぬ帯やら道具やらが地面に落ち、全身を覆っていた重たげな布が外され・・・驚くほど華奢な肢体が現れた。 そして表情こそ何とか平静を保てたものの、予想外の正体に私は言葉を失うことになる。 大仰な留め具の下から出てきた卵形の顔は、間違いなくまだ年端もゆかぬ娘のものであったのだから。
唖然とする私の前で、彼女は面妖な道具を使い、あっという間に火をおこしてみせた。 野営の準備をしているのがわかると、ただ見ているのも気が引けてしまってそれを手伝い・・・気がつけば私たちは手持ちの食糧を勧めあっていた。 「ところでこの子は?捨て子なのか?」 私の問いに娘は首を振った。金の髪が炎の色をはねかえし、きらきらと光をふりまく。 「空から降ってきた。」 「空から降ってきた?」 おうむがえしに問いかけても、少女は至極真面目な顔で同じ言葉を繰り返す。 額面通り信じろというのには、あまりにも無理があった。おそらくは単語の取り違いなのだろうが・・・その真相は想像もつかない。 だがその奇妙な問答を皮切りに、私たちは時間を忘れて語り合った。 互いの生い立ち、日常の生活、そして「シン」と呼ばれるものについて・・・。話題は尽きることはなく、彼女が聞き取れぬ言葉が多くなってくると、文字を書いてその意志を伝える。 夜も更け、そして夜明けが近くなっても、私たちは飽くことなく地面に文字を綴り続けた。
娘の話は、何もかもが驚きの連続だった。 何よりも驚愕したのは、寺院が言うように、彼らはエボンの教えに反対してはいない、ということだっただろうか。唐突に眼前に開けた新しい世界に、久方ぶりに胸のすく思いがした。 そなたの仲間とも、是非話がしてみたいものだ。そう告げようとした時。 突然視界がぐにゃりと曲がり、頬が地面とぶつかる。 薬・・・か?確かにアルベドはその扱いに長けた種族。だがなぜ今になって・・・。 痺れるまぶたを必死でこじ開けると、にじんだ視界に飛び込んできたのは翠に輝くらせんの渦。 「わたしはこれからホームに戻る。だが、その場所を知られるわけにはいかないのだ・・・。本当にすまない。薬の量は加減してあるから、朝になれば動けるはずだ。」 その瞳に、言葉以上の感情がたたえられていたと感じたのは、私の思い上がりだったのだろうか。 鼻先が触れあうほどの近くで彼女は囁くと子供を抱き上げ、きびすを返す。 「・・・・・・ッ!」 引き止めようにも舌が痺れて言うことをきかない。・・・遠ざかる足音を苦い思いで聞きながら、私の意識は闇へと落ちた。
次に目覚めた時には、言うまでもなく彼女の姿はなかった。 焚き火の痕跡も、丁寧に消されている。ため息をついた私の視線は、ある一点で止まった。 昨晩、二人で無数の文字を綴った地面に残されていた、ただ一言。 「あえてよかった」
私は心に決めた。 長年の屈託を吹き払ってくれたあの娘に、もう一度会いたい。いや、会わねばならぬと。 彼女の種族とヒトとが手を携えることができれば、スピラに永遠の平和がもたらされるのも決して夢物語ではないのではないだろうか。 呼び名すら教えてくれなかったつれない娘であったが、彼らの若き族長は彼女の兄とのこと。 アルベド族と接触さえ図れれば、間違いなくその情報が聞けるだろう。
杖にすがり、よろめきながらも何とか立ち上がる。 朝になれば動けるはず・・・か。もしやあの娘、薬の量を間違えたのではないか?今の状態で、魔物に出くわしたらどうしろというのだろう。この責任はきっちりととってもらわねば・・・ もう見えぬ姿に向かって盛大に苦情を並べ立てながらも、私はこみあげてくる笑いを抑えることができないでいた。
旧き時を思い返していた召喚士ははっと我にかえると、珍しい光景に目を瞠った。 汚れ物の始末にでも行ったのか、聖地から来た男の姿はいつの間にか視界から消えている。 代わりに赤子を腕に抱くのは、深紅の衣を諸肌脱ぎにした若者であった。 大剣を軽々と振り回す腕が、慣れぬ姿勢に緊張で固まっているのが手に取るように感じられ、召喚士は眼を細める。
この若者は、これよりどのような生を送るのだろうか。 自らの子供を、その腕に抱く日は来るのだろうか。 そのようなささやかな幸せすらしかとは覚つかぬ、この呪われた世界。 そう、自分はそのような悲しみのない時間を創るべく、旅を続けている。 今は亡い妻と、別れて久しい愛娘の姿を一瞬脳裏に思い描き、召喚士は若者たちに向かって歩み寄っていった。
(永遠のナギ節 黎明編 完)
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