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たそがれの風が、幻光河を渡っていく。 ジョゼ大陸を分断するこの河の北岸に、召喚士ブラスカ一行が辿り着いたのは、日の暮れかかる刻限だった。 「うわぁ、すげぇや」 ジェクトの声は、ため息に変わる。 木立を抜けた一行の眼前に、幽邃な大河がゆったりと姿を現したのだ。 岸辺には紫色の花弁をつけた幻光花が群生し、ゆらゆらと夕まぐれの風にそよいでいる。 年弱のガード、アーロンは、ザナルカンドから来たという、もうひとりのガード、ジェクトの姿を、苦虫を噛みつぶしたような顔つきで見た。 ベベルを出立してからマカラーニャ寺院、雷平原、そしてこの幻光河まで……あいつの態度には緊張感の欠片もない。やれ土産だ、記念撮影だと、まるで物見遊山ではないか。 河岸に走り寄ったジェクトは、透き通った水面に目を凝らしている。 澄んだ水をすくい取る指先から、淡い光が生まれるように立ち上った。 「蛍か?光ってんのは」 「幻光虫というんだよ。このあたりは大気中のね、幻光虫の濃度が高いから。その放つ光が集まって夜ともなれば、さながら星の海になる」 冠飾を揺らし、衣擦れの音をさせながら、ジェクトの傍に佇むとブラスカは言った。 「へぇ、面白れぇな。星の海か……そうだ!」 「夜までなど待たんぞ」 アーロンは冷たく言い放った。ジェクトの顔はダダをこねる子供のようだ。 「あんだよ、もうちっとじゃねぇかよ。な、いいだろブラスカ」 「そうだね。今日はここに宿でも取るとするか」 「ブラスカ様!こんな奴の言うことに、耳をかされる必要などありません。この旅は遊びではないの……」 「まあまあ、アーロン。見てごらん」 にこり、ブラスカは慈愛に満ちた笑みを浮かべると、涼やかな横顔を対岸に向けた。 秋の日は釣瓶落し。 幻光河の夕景は、茜から紫そして群青へと、見る見る色を変えていたのだ。 「星見にゃ酒だな。お、ブラスカもいけるクチだねえ」 「ははは……。あ、もうそのへんで」 ブラスカとジェクトは河岸に陣取り、酒宴に盛り上がっている。 これでは神秘的な風景も台無しだ。 少し離れた大木に寄りかかっていたアーロンは、ふうっとため息をついた。 星見酒というのがあるのかは知らないが、花見でも、月見でも……要するに、あいつは酒さえ飲めれば何でもいいのだ。風情もなにもあったものではない。 「おい!カタブツ。そんなとこでたそがれてねーで、おめぇも、こっち来て飲みゃいいだろうが」 「うるさい!キサマと酌み交わす酒などもたん」 アーロンは眉間の皺を深くすると、手酌で杯をあおった。 目の前に広がる星の海、仰ぎ見た夜空にも満天の星。 境界のない宇宙のただなかに、放りだされたような感覚は、神経を麻痺させていくようで。 一番近い天体はぽっかりと夜空に浮かび、青白い光をこんこんと水のように流しつづけている。 ―――ほんとうに、いい月の晩だった。 「ブラスカ様起きてください、ジェクト起きろ!」 アーロンは酔いつぶれている二人の肩を揺り動かした。 「眠るなら、宿で寝てください。ブラスカ様、風邪をひいてしまいます」 しょうがないな、二人とも―――。 途方に暮れて、アーロンが立ち上がろうとしたときだった。 きらっ、背後で何かが光った。振り向いてあたりを見回す。 うしろにはうっそうとした木立の闇、河沿いには一面の草むらがつづいている。 人影はなかった。しかし……さっきまで自分の座っていた立木の傍に『それ』は突然置かれていた。草陰に淡い光を放っている。 「あぅ〜〜」 アーロンは耳を疑った。赤ん坊の声だろうか。 「まさかな……」 半信半疑な面持ちでゆっくり近づくと、不思議な布に包まれた赤ん坊がそこにいた。 黒目がちな瞳が、覗き込むアーロンをじっと見ている。 夢を見ているのかと思った。 アーロンは身体を屈め、草むらからその光る布ごと、両手で恐る恐る抱き上げる。 頭を支えるように胸に抱いた赤ん坊は温かく、ぐにゃっとした感触は現実だった。 ―――その後、やっと目覚めた酔っぱらいの相棒は、河を渡すシパーフに斬りかかる……という失態を、やらかしてくれたのだった。 宿屋は幻光河を見渡せるところに建っていた。 神さびた木造りで、人の良さそうな女将のいる旅宿だ。 ひと部屋に4人は少し狭いが、贅沢は言えない。ブラスカ様の大切な旅費を、使い果たしてしまったのだから、ジェクトの所為で。―――しばらく河は渡れない。シパーフを魔物と間違えたあいつもあいつだが、赤ん坊を拾ってきた俺も……俺だった。 10畳ほどの部屋に、布団が4組並んでいる。 荷物の整理をしているアーロンに、ジェクトはさっきから纏わりついていた。 「ふ〜ん、そんで、拾って来たっつーのか」 「そうだ」 「ま、オレたちは眠っちまってたから、どうとでも言えらーな」 「どういう意味だ」 ジェクトの意味深な発言に、アーロンは顔を上げる。 「ほんとはおめぇのガキだったりしてな。女に押し付けられたとか」 「話にならんな」 「おめぇ僧兵だったんだろ。そんとき任務かなんかでこっちに来てよう、ここの女とねんごろになっちまって……おめぇが産ませたんじゃねーのか?」 「なっ!」 ジェクトはニヤリと笑っている。 そのひと言は、血気盛りの実直なガードを怒らせるには、充分だった。 一気に頭に血が上ったアーロンは、ジェクトに跳びかかると布団の上に組み伏せる。 「キサマ、もう一度言ってみろ!」 しかし横たわった男の方は、余裕の笑みを見せている。おもむろに若いガードの腰に両腕を回した。 「だからぁ、アーロンちゃんがこ〜んなことしたんじゃねえかって……言ってるんだよ」 「うっ……止めろ!離せ!」 ジェクトは自分の腕の中で、もがいているアーロンに顔を近づける。 「そのうるせえ口、塞いでやろうか?」 「ジェクト!……血迷ったかっ!」 どたん、ばたん、布団の上で格闘している二人を、見かねたように振り返ったブラスカは、ロッドをかざした。ふと気がつくと、男たちの背後でシヴァが微笑んでいる。『天からの一撃』―――かきん、二人のガードは一瞬にして凍りつく。―――いくら何でも酷すぎます、ブラスカ様。 何事もなかったように、ブラスカは眠っている赤ん坊に視線を戻した。 その微笑は、いつにも増してやわらかい。 「よく眠っているね。いい顔をしている」 立ち直ったガード二人も、赤ん坊を覗き込んだ。確かに可愛い。 「おめぇに似ていなくもねーな」性懲りもなく、ジェクトはまだそう言う。 「だから、違うと言っているだろう!!」 しっ、と人差し指を口元に立て、ブラスカはアーロンを見た。殺気を感じる。 ―――天地神明に誓って、俺の子供じゃありません。ブラスカ様……。 「とにかく、おめぇが連れて来たんだ。こいつの面倒はちゃんと見ろよ。オレは知らねえからな」 「あぁ、わかっている。キサマの世話にはならん!」 そう言い返したものの、アーロンは後悔していた。実は子供が苦手だった。その前に、乳飲み子の世話などしたことがない。正直どうしていいかわからない。今晩のおむつなどは宿のほうで何とかなった。あとは明日、女将が近所の母親たちに聞いてくれると言っていたから、それだけが頼みの綱だ。ともかく朝までおとなしく眠ってくれれば―――。 その夜、一行が眠りについて間もなくのことだった。 「うぎゃああああぁ……」 静寂を破る、けたたましい目覚ましが、耳元で強烈に鳴り響く。 アーロンは布団から半身を起こし、赤ん坊ににじり寄ると、寝ぼけ眼で肌着に手を差し入れた。―――おむつは濡れていないか。ミルクの時間でもなし……何を泣いているんだ? 「うるせえぞ、なんとかしろ!」 すぐ隣りのジェクトが声を張り上げた。その奥にはブラスカが眠っている。 「すまん」 アーロンは薄い夜着の上に、緋色の衣を軽く羽織る。 そして泣き止まない赤ん坊を抱き上げると、黙って部屋を出て行った。 窓からの月明かりは、ことのほか明るい。 ブラスカとジェクトは、寝床から起き上がると顔を見合わせた。 おそらく二人とも、同じことを考えている。 「ったく、つまんねえ意地張りやがって、あいつは。ひとりで何ができるってんだ。ガキ育てたこともねえくせによ。オレもブラスカも経験者だっつーのにな」 「ははは……まあ、アーロンが素直に、君に甘えるとも思えないけど」 「あいつが、ブラスカの手を煩わせるわけもねえってか。ったく」 「だけどジェクト、アーロンのこと……」 「わぁってるって、しゃーねーやな。明日、あのガキの親探しでもしてやらあ」 「そうしてもらえると、どのみちシパーフは……。河は渡れないのだから」 にこり、ブラスカはジェクトを見ると微笑んだ。 「……それを言われちまうと、面目ねえ」 ジェクトは肩をすぼめ、ガリガリと頭を掻いた。 ふと二人の視線は、そこに立てかけてあるアーロンの大太刀に止まる。 アーロンは武器も持たず、防具も付けず……まったくの丸腰で出て行ってしまったのだ。 ブラスカとジェクトの目が合った。多分今度も、考えていることは同じだ。 「魔物が出なければ、いいけどね」 「わぁったよ、行ってくりゃいいんだろ。あの小生意気なガードと赤ん坊の護衛に、行かせてもらいますぜ、ショーカンシ様よ!」 「すまないね、ジェクト」 にっこり、ブラスカの特上の微笑みに、背筋が薄ら寒くなる。 怖ぇ、『アビリティおどす』付きだぜ絶対に、ジェクトはそう確信していた。 真夜中の幻光河には、人っ子ひとりいなかった。 夜空には一片の雲すらなく、澄みわたっているというのに、アーロンの心は晴れなかった。 宿屋からぎこちなく抱えてきた赤ん坊に目をやると、ふうっとため息を吐く。 花の香をふくんで河から吹く風は、アーロンの解いたままの黒髪を揺らしている。 冷え込んだ夜気を遮るように、赤ん坊を懐にしまうと河岸にしゃがみ込んだ。 アーロンは僧兵として、誰にも負けたことがなかった。 鍛えられた鋼のような肉体と、強靭な精神力から放たれる、精妙な剣技―――。 しかし、大剣を鮮やかに操って魔物を退治するガードも、赤ん坊の抱き方さえがわからない。秘伝『牙龍』を修得しても、乳飲み子のあやし方は習得していなかったのだ。 今まで自分のやってきたことは、何だったのだろう。 目にいっぱい涙をためている『彼』の前で、アーロンは非力だった。 「子供か……」 あのとき結婚していれば、今頃俺にもこんな赤ん坊がいたのだろうか。 ふと、そんな思いが脳裏をかすめる。 僧兵の頃の縁談……未練があるわけではない。もともと会ったこともない相手だった。 出世する気もなければ、誰かを繋ぐ駒になるなど御免だった。しかし、な―――。 俺は迷ってばかりいる。すべて承知のうえでガードになったはずなのに、気持ちが揺らぐ。 突然あらわれた赤ん坊にさえ、こんなにうろたえている俺に、ブラスカ様の死を受け入れることができるのだろうか。……考えないようにしていたことを、ぐだぐだ考えはじめて。 召喚士の旅……待ち受けている現実が、怖くてたまらなかった。 ふと、気がつくと―――いつのまにか赤ん坊は泣き止んでいる。 つぶらな瞳が、きょとんとアーロンを見つめていた。 「そんな目で見るな……」 何も出来ないもどかしさ。弱気な俺を見透かすように、おさな児はじっと見ている。 「おまえ捨てられたのかもしれないんだぞ。それなのに、どうしてそんな―――」 あまりにも無垢な瞳に胸がつまった。抱いていた腕の力をそっと込めると、赤ん坊はそれに反応するように、ふわっと笑う。 可愛いかった。あどけない笑顔は、凍えそうなアーロンの心にしみわたる。 胸の奥から、熱いものがこみあげてきそうで……。 俯いたアーロンの髪を、小さな五本の指は掴んでいた。ぎゅっ、と引っ張る。 「痛っ」 目の前にあったから、掴んだだけなのかもしれない。 だけどアーロンには、こいつが励ましてくれている、そう思えてならなかった。 「おまえ……」 赤ん坊をぎゅっと抱きしめ、ふわふわとした頬に、そっとほおずりをする。 アーロンの冷たい皮膚に、やわらかな温もりがじんわりと移って。 もうどうしようもなかった。 こらえきれず湧きあがる光の玉は、ころころと頬を伝っていく。 アーロンは、見かけに寄らず涙もろい。すぐにカッとなるのが玉に瑕だが、心根は優しかった。感情を手に取るように出してしまうくせに、肝心なところが素直になれない。上手く立ち回れるほどの人生経験を持ち合わせていない、つまりは不器用な愛すべき若造だった。 ミユウがひと気のない北岸の道で、仲間たちと別れたのは真夜中だった。 その日、最後のシパーフに乗れなくなって、南岸からずっと遠回りをして帰ってきたのだ。 河沿いをちょっと歩けば家に着く。 「たいへん、こんな時間!」 17歳の元気な少女は、河岸へ駆け出して行く。 幻光河のいつもの風景、光の紋様を横目で眺めて、駆け抜けようとしたのだけれど。 ミユウは、ふと足を止めた。光の中に人影がある。 「え……?」 その人は泣いていた。 月明かりに照らし出された横顔が、涙でキラキラ光っていたのだ。 胸に赤ん坊をしっかり抱いて、思いつめた表情でいる長い髪の男性。 よるべない不安が……ミユウを襲った。 「まさか、身投げ?」 アーロンはふらふらと、よろめくように立ち上がる。 決心したように河に向って踏み出した。そのとき―――。 「早まっちゃダメ!!」 赤ん坊を抱えたアーロンは、後から力強く抱きつかれていた。 腰のあたりに回されたその両腕は、引っ張るようにさらに強くしがみつく。 「え?」 「どんな事情か知らないけど、お兄さんダメだよ、やり直せるって!!」 「離してくれ」 「ダメ!絶対に離さないから!!」 何か勘違いされている、アーロンはそう思った。 俺はただ……懐に入れた髪留めが、河のほうに転がり落ちたのを、拾って帰ろうとしただけなのだが。 少女の力は愕くほど強く、背中にあたる胸の感触は豊かだった。 「わぁあああん、わぁあああん、わぁあああん……」 赤ん坊は―――火がついたように泣き出した。 再びアーロンに、行き場のない不安な気持ちが呼び覚まされる。 「ほら、この子を見て!こんなに小さくても、ちゃんと生きてるんだよ!死ぬなんて考えちゃダメ!!」 腕の中の赤ん坊を、見るともなく眺めながら、アーロンは、ぽつりと呟く。 「俺は……死んでもいいと思っている。死ぬ覚悟は出来ている」 それだけは本当だった。迷って、悩んでばかりいる自分でも、その覚悟はできている。 ガードとはそういうものだから。ブラスカ様の代わりに、俺が死んですむのなら……。 でもこの状況で、そんな真意が彼女に伝わるはずはない。 パシッ。 刹那、ミユウの平手がアーロンの頬を叩いた。 「弱虫!最低!!」 ギッと睨むように、向けられた彼女の瞳は潤みはじめて、今にも涙が溢れそうで。 アーロンには正視できないくらい、真剣な眼差しだった。 本気で俺に怒っている―――。 彼女は俺の腕から、赤ん坊を無理やり奪い取る。俺になんか任せられない、そんな感じだ。涼風のような優しい声をかけ、陽だまりのような笑顔を向け、ゆりかごのように身体を揺らす。それは俺なんかより、ずっとさまになっている。 やがて赤ん坊はミユウの腕の中で、すやすやと静かな寝息をたてはじめていた。 「ほら、かわいい顔して眠ってるよ。男の子かな?」 「あぁ」 赤ん坊を覗き込むアーロンの横顔は儚げで、彫像のように美しい。 視線を感じミユウに目をやる。すると彼女は慌てたように目を逸らした。 アーロンは美形である。 潤んだ瞳が重要なチャームポイントなのだが、本人はそれに気づいていない。 まださっきの涙の雫を、睫毛にからませているアーロンの姿は『鬼に金棒』、ミユウもノックアウトだった。急に目を逸らしたミユウを心配するように、更に彼女をじっと見つめる。 鈍感は、罪であった。 「名前、何て言うの?」 「アーロン」 「そう、アーロン君って言うんだあ」ミユウは赤ん坊に頬を寄せる。 「いや……アーロンは俺だ」 「え?」顔を上げたミユウの顔は、ほんのり赤らむ。 「じゃ、この子の名前は?」 「知らない」 「知らないって、あなたの子供じゃないの? 奥さんに逃げられちゃったんじゃ……?」 アーロンは首を横に振った。彼女は訳がわからない、という顔をする。 「俺には……妻もいなければ、逃げられてもいないから」 「へ?―――そうなの?だって?」 それからしばらく俺たちは、見つめ合っていた。 「あははは……なんだあ」 ミユウは大声で笑い出す。それからしばらく俺たちは、笑い合っていた。 「私は、てっきり……心中するんだと思ってた。だってそんな顔してたよお」 ねっ、とミユウは抱いている赤ん坊に同意を求める。 「あんたのタックル、結構キイタな」 「当ったり前よ、ブリッツボールの選手だからね。泣く子も黙る炎のディフェンダー、ミユウ様だもの」 彼女は屈託のない笑顔で言う。いい子だな、と思った。 肩までのブラウンヘアに、深紅のスカートがよく似合っている。 化粧っけのない素顔は、幻光虫の光に揺らいで美しかった。 ミユウは、ふと真顔になって俺を見る。 「だけど……ね。赤ちゃんの前で、さっきみたいな不安な顔しちゃだめ。こんなに小ちゃくたって見てるんだよ」 「すまない、気をつける」 彼女の前で、俺はとても素直だった。 たわいのない話をして、笑い合って、真夜中ということさえ忘れて。 お互いの心を占領するのに、時間はかからなかったと思う。 誰にも見せたことのない、弱い部分をさらけ出してしまった俺と、身体ごと本音で俺にぶつかってきた君。本当に身体ごとだったけどな。 だけど俺は……ガードだと、彼女に言えなかった。 ミユウの姿が、河沿いの道を歩いて見えなくなった。 眠っている赤ん坊の重さに手が痺れ、アーロンは我に返った。やけにずっしりと腕にのしかかる。起こさぬように抱き直し、振り向くと……ジェクトがいた。 いつものように右手を首筋にやり、ニヤリと笑う。愕然とした。 「ジェクト……いつから、そこにいた」 「ああん、そうだな。……離さないとかいうあたりか? ねえちゃんが、むぎゅうっておめぇに抱きついて……」 「わかった」 アーロンはバツが悪そうに目を逸らす。 あいつは鬼の首でも取ったかのような、不適な笑みを浮かべている。 「安心しろって、オレ様だって野暮じゃねえ。人の逢瀬を覗く趣味はねーからな。あっちのへんにいたからよ。だからそのあとの話は聞いてねーし、ねえちゃんを押し倒してようと見てねーから」 ジェクトは、今までいたという木蔭のあたりを指差した。 彼女を……押し倒してなどいないから、一応ジェクトは気を使ってくれた、見ていなかったということか。 「おめぇがそんなカッコで出て行きやがるから、ブラスカが心配してな、行け行けってうるさくてよう。まぁおめぇひとりなら魔物にやられようと、しったこっちゃねえが、ガキに何かあっちゃたいへんだからな」 ジェクトはロングソードの柄を担ぐと、とんとんと肩を叩く。 「しっかし……ちっと見直したな。カタブツさんも普通の男だったんだねえ」 ジェクトは感慨深げに、しみじみとアーロンを眺めている。 「なんだ?」 「んで、やっぱそのガキ、おめぇのだったってわけか?」 「まだそんなこと言っているのか。冗談もたいがいにしろ!」 「でけぇ声出すと、ガキが起きるぜ」 アーロンはぎこちない手で抱いていた赤ん坊に、視線を落とした。 「ったく、風邪ひかせちまったらどうすんだ。こんな夜中によう。うう、寒みぃ。ほら、かしてみろ」 ジェクトはアーロンよりずっと慣れた手つきで赤ん坊を腕に抱き取ると、替わりに自分の持っていたロングソードを押し付けた。 アーロンには、やっぱり武器のほうが似合っている。 「ん? おめぇは……」 腕に抱いた途端、ジェクトは神妙な顔つきになった。じっとそのまま赤ん坊に見入っている。 「どうした?」 「なんでもねえよ。帰るぞ!」 赤ん坊をしっかりと胸に抱いたあいつは、宿に向って歩き出す。 大股でずんずん歩いて行った。後からついて行く俺は、からかわれるのを覚悟していたが、あいつはひと言も喋らなかった。拍子抜けだ。 ジェクトは、ときどき赤ん坊に優しい眼差しを向け、まだ生えそろわない髪にキスをした。 ―――息子のことでも思い出したのか? あんたのことは気に入らないが、あんたの家族思いはわかっているから。 ***** 「うわぁ、すげぇや」 翌日の夕刻のこと。ドアを開けたジェクトとブラスカは、そのあとの言葉を呑みこんだ。 宿屋にはアーロンと赤ん坊が、二人淋しく待っていると思っていたのに―――。 部屋には、豊潤な女の匂いが満ちていた。 女将から話を聞いた近所の母親や、足止めされ暇を持て余している旅人、そんな女たちがひしめき合っている。アーロンは言わずもがな、圧倒されて成すがまま状態だった。 しばし高みの見物とばかりに、ブラスカとジェクトはその場にどっかり腰を下ろした。 アーロンは、母性本能をくすぐるタイプだ。 多分、これも本人は気づいていないだろう。普段は厳しい顔をして、近寄り難い雰囲気の青年も、ひとたび許容範囲外のことになると、てんでお手上げ、隙だらけになる。 ジェクト曰く―――あいつはよう、危なっかしくて、なんか放っておけねえタイプっつーの。一生懸命なとこも、妙に可愛かったりすんだな。かと言えば、もろ肌脱いで上腕二頭筋を見せつけやがる。たまんねえっつーの、わかってんのかねえ、あいつは―――。 「おむつを取り替えるときは、こうして足を持ち上げて……はい、もう一回」 「アーロンさん、もっと肩の力を抜いて」 「はい」 「お風呂に入れたことはあるの?」 「いえ」 「そうそう、あんた筋がいいよ。はい、もう一回ね」 「もうミルクの時間じゃないの。作り方だけど」 「それは私が教えてあげるわ」 「あんた、男前だねえ」 「は?」 「アーロンさん、独身?」 「はい」 「きれいな髪してる、わぁサラサラ」 「あの」 「こんなに汗かいて、それ……脱がしてあげようか」 「はあ」 緋色の装束を脱いで床に置くと、アーロンは額の汗を拭った。 みんなの厚意はありがたいと、つくづく思う。少し弄ばれている感じは否めないが。 ふと、入口付近に目をやったアーロンは、ジェクトたちの姿に気がついた。 「なんだ、帰ってたのか」 そのとき―――ドアが開いた。 「本命の登場だぜ」 ジェクトはブラスカに耳打ちすると、おもむろに立ち上がった。 「みんなすまねえな。あとはもう大丈夫だからよ。また、頼むわ」 どっかりと腰を下ろした女たちの背中を、ジェクトは追い立てるようにぽんぽんと叩いた。 「そうかい。それじゃアーロンさん、遠慮しないで何でも聞いとくれよ」 「はい、ありがとうございます」 「アタシら経験者なんだからさ」 「ほんとよ」 女たちはがやがやと、名残惜しそうに部屋を出て行った。 「んじゃ、オレはもうちっと、親探しの聞き込みでもしてくるかな」 「そうだね。私もちょっと」 ブラスカとジェクトも、気を利かせるように立ち上がった。 窓から夕暮れの幻光河が見える。 部屋は潮が引いたように、静まり返っていた。 アーロンは立ちすくんでいるミユウに近寄ると、抱えていた荷物を受け取った。 昨日、約束した赤ん坊のおむつや産着だ。すでに部屋には山のように積まれていたが、彼女の気持ちはことさら嬉しい。 「すまない、助かる」 「ううん」 ミユウは戸惑いを隠せない様子でいた。昨夜のアーロンとは、別人に思えたからだ。 儚げな印象をあたえていた長い髪は固く結ばれ、端整な顔立ちをいっそう硬質にしている。 黒皮の鎧から出した、隆々と逞しい両腕、厚い胸板。その風貌はどう見ても、普通の旅人とは思えない。 立てかけてある大太刀に、ミユウの目が止まった。 「さっきの方、召喚士様よね。アーロンさんは、もしかして……」 「あぁ。ブラスカ様のガードをしている」 「そうだったんだ」 ミユウの表情が、微かに変わったのがアーロンにはわかった。 死ぬ覚悟は出来ている、昨夜俺が言った言葉の意味を察したのだろう。 召喚士のために命をも投げ出す、それが主を守るガードの使命だった。 手際よくおむつを取り替えながら、アーロンが赤ん坊に向ける眼差しは、すごく優しくて、ずっと見ていたいな、とミユウは思った。赤ちゃんも気持ち良さそうに、ニコニコ顔になっている。アーロンとミユウと赤ちゃんと―――この部屋の空気は、ほのぼのと温かかった。 「ビックリした、すっごい慣れた手つき……」 「さっきまで、特訓されてたからな」 「アーロンさんって、案外いいお父さんになるかもね」 「それは、どうかな」 ミユウが持ってきてくれた産着を着せ、赤ん坊に毛布を掛けると、アーロンは微苦笑する。 「……結婚は……しないと思う」 「え?」 「だから……子供を持つなんて、多分無理だな」 「どうして?」 アーロンは何も言わなかった。 本当に優しい眼差しで、赤ん坊を見つめている。ぽんぽん、アーロンの大きな掌が、毛布の上を優しく叩く。赤ちゃんはすやすやと、もうすでにおねむだった。 ミユウはもう一度、大太刀に目をやった。 アーロンはガードを志願したときに、自分の将来を捨てたのだろう。 結婚も、恋愛さえも―――。 そのあと、ミユウの口をついて出た言葉に、偽りはなかった。 「私が産んであげようか、あなたの赤ちゃん」 「え?」 「私のこと……抱いてもいいよ」 「俺をからかっているのか」 「本気だよ、アーロン」 「だったら、同情か?……俺がガードだと知って、明日死ぬかもしれないから、あんたは……」 「違うよ!……好きだからに……決まってる」 そのまま、俺たちは押し黙る。ただ、じっと見つめ合ってた。 窓から射し入る西陽に、二つの影が長く映って―――。 鮮烈に、ストレートに。いつも君からぶつかってくる。戸惑って、ぐだぐだ迷ってばかりいるのは、いつも俺で。ミユウを抱き寄せることも、突き放すことも、まだどっちだって選べる。俺も……同じ気持ちだ。だけど、身体が動かなかった。 ミユウの澄んだ瞳は、どんよりとした鈍色になり、唇は小刻みに震えている。 触れたら壊れてしまいそうで、俺は立ち尽くしていた。 ミユウは俺から顔をそむけた。俺は最低だと思った。みんな彼女に言わせて何も出来ないでいる。このまま帰してしまったら……彼女を傷つけてまで、自分の心をごまかすなんてできはしない。 背を向けようとしたミユウの腕を……俺は掴んだ。彼女を引き寄せ、はらはらと涙が流れ落ちる、ミユウの首筋を抱きしめた。 窓から流れ込んでくる月の光だけで、部屋の中はうっすらと明るかった。 ミユウはアーロンに背を向けて身づくろいをすると、立ち上がる口実のように、赤ん坊のおむつを手に取った。 「これ、片付けてくるね」 「あぁ、すまない」 アーロンも身体を起こし、脱ぎ捨てた服に手を伸ばした。 ミユウを抱いた感触が、まだ身体に残っている。 乱れた髪を後ろ手に束ねながら、彼女が出て行く音を背中で聞く。 静かにドアが閉まった。 ほの暗い部屋に灯りをつける。赤ん坊はおとなしく眠っていた。 アーロンは傍らに腰を下ろすと、天使のような寝顔にしばし見入る。 おまえと、彼女と……ずっと一緒にいられたら、どんなに……。 戦って、命をすり減らして―――そんな生き方しか、俺には思いつかなかったから。 ミユウが部屋に戻ると、アーロンは赤ん坊に寄り添うように、うつらうつら眠っていた。 慣れない世話で疲れたのだろう。膝を抱えた腕に、顔を埋めている。 ミユウはおだやかに微笑むと、部屋を見回した。 緋色の衣を手にとると、アーロンの肩に掛け部屋を出て行く。 そのとき……彼女の抱えた荷物は、立てかけてある大太刀にぶつかったのだ。押えていた留め金が外れ、それが不安定に傾いてしまったことなど、彼女は気づかなかった。 ブラスカとジェクトは今宵も星の海を堪能し、しかし酒はやらずに宿屋に戻った。 なかの様子を窺いながら、そっと扉を開ける。 静かだった。開け放った窓から、風が流れ込んでいる。 彼女の姿は、どこにも見えない。アーロンだけが、赤ん坊の傍でうたた寝をしている。 そのとき身を乗り出した赤ん坊に、倒れかかってくる大太刀があった。 「危ねえ!」 駆け寄ったジェクトが赤ん坊を抱き上げる。危機一髪、切っ先がジェクトの二の腕をかすめた。どさり―――。瞬間、鉄塊のごとき大剣は、赤ん坊のいた布団に転がり落ちていた。 「うわぁあああああ〜ん」 泣き声に、はっとして目を開けたアーロンの頬に、ジェクトの鉄拳が跳ぶ。 どすっ、アーロンは壁に背を打ちつけ、床に崩れるように蹲った。血の味が口の中に広がる。 「バカ野郎!何やってんだ、てめぇは!」 ジェクトが抱き上げなかったら、大太刀は赤ん坊に直撃していたのだ。 「す、すまん」 「おめぇは、自覚が足りねえんだよ!満足に面倒もみられねえくせに、でけぇクチたたくんじゃねえ!」 アーロンの胸倉を掴んだ、ジェクトの軋むような筋肉。 初めて見せる、その剣幕に父親を感じた。怖いと思った。 「気をつける。二度とこんなことは……」 「死んじまったら、今度はねーんだ。わかってんのか、あん!」 胸をつかれる。返す言葉は何もなかった。 「ジェクト、もうそのくらいで。アーロンもわかってるから、ね」 ブラスカは、ジェクトをたしなめるように肩を押えた。 窓辺に腰を下ろし、アーロンは幻光河を眺めている。 しかし、その瞳には何も映っていなかった。ジェクトがそっと近づく。 ブラスカは赤ん坊に添い寝している。うしろで静かな寝息が聞こえた。 「さっきは、すまなかったな。言い過ぎた」 アーロンはただ、首を横に振った。 ジェクトはそんなアーロンの頭をポンと叩くと、自分も近くに胡座をかいた。 「一日でお手上げって感じだな。たいへんだろ、子供を育てるっつーのはよう」 アーロンは、力なく息を吐く。 「夜中でもかまわずピーピー泣くしな。ろくに寝かせてもらえねえ。腹がへったとか、おしめが濡れたとか、具合が悪いとか、ただ眠てーだけとかな。泣くばっかでよう……けど、慣れてくると、なんで泣いてんのかわかってくんだな、これが」 「そうなのか」 アーロンはチラッと、ジェクトの顔を見る。 「おうよ、今くらいが一番たいへんな時期だな。けど、一番かわいいときでもあるんだ。まっさらでよ」 それはジェクトには珍しいくらい、柔和な笑顔だった。 「それが、もうちっと経つと、オレんとこのガキみてーに生意気になりやがって、ひとりででかくなったような顔しやがる。ま、それも成長してるって証拠なんだけどな。そんでも、かわいかった赤ん坊の頃のこと覚えてるから、みんな許せちまうんだよなぁ」 「そうか」 「おめぇも子供欲しくなったんじゃねえのか?」 「そうだな」 「お、やけに素直じゃねえかよ」 ジェクトは、ちょっと大げさにのけぞった。 俺はジェクトに笑顔を返した。多分、はじめてだったかもしれない。 ジェクトの言葉ひとつひとつが、今日はひどく俺の心に効いていた。 さっきのあんたは父親そのものだったから。あんた結構ちゃんと、親やってたんだな。 あんたやブラスカ様には、俺なんて逆立ちしたって敵わない。痛いほどそれがわかった。 俺の親父やお袋もそうだったのか―――。そんなことが脳裏に浮かぶ。胸が熱くなった。 アーロンはジェクトから慌てるように顔をそむけ、窓の外に目をやった。あいつの前で泣いたりしたら、一生からかわれるからな。しかし、目の前の幻光河はぼやけていた。星の海は光の帯に変わり、光の洪水となって、鳶色の瞳から溢れ出してしまいそうで―――。 「泣くぞ、絶対泣くぞ、ほら泣くぞ」 「うるさい!」 アーロンは薄い夜着の袖口を、瞼に当てた。 「はっはっは。アーロン、いいこと教えてやろうか?」 「なんだ」 「子育ての秘訣はよう……疲れたら休む、人の手は借りるだ。おめぇのように何でもひとりで抱え込んじまうのが、一番だめだな。そのための仲間だろうが」 そう言って笑ったジェクトの顔は、太陽みたいに優しかった。強くって温かくって。 俺あんたのこと誤解してた。あんたの表面しか見てなかったと思った。 あんたって、いいやつだな。 ジェクトは立ち上がりざまに、俺の頭を撫でながら―――。 「んじゃ、アーロンちゃん。お月様におやすみなさいを言って……ションベンして、さっさと寝ろ。……はっはっは」 「ジェクト!?」 さっきのは取り消しだ。俺はあんたのガキじゃない。 だけど、あんたの掌……温かかった。 ***** 翌日のシパーフ乗り場は、昼過ぎから活気を取り戻していた。忙しそうに行き交う人々。 二日振りにシパーフの背に揺られ、河を渡っていく旅人たちの群れ。 やっと人影もまばらになった夕刻、ブラスカ一行も出立しようと宿屋を出る。 北岸のシパーフ乗り場に向った。 「おめぇに、お客みてーだな」 ジェクトの視線は、待合所の陰にぽつんと佇むミユウに向けられていた。 昼からずっと待っていたのだろうか。 「行っておいで、アーロン」 ブラスカ様の言葉に、俺は背中を押された。 俺たちは幻光河の岸辺まで歩いた。 樹冠を広げる大木の傍で足を止める。梢にあたる風はざわざわと葉を揺らし、対岸のなだらかな山の背も暮れなずむ。きれいな薄くれないの夕空だった。 アーロンの胸に抱かれた赤ん坊の、身寄りは未だに見つからなかった。 「赤ちゃん、連れて行くの?」 「あぁ、しかし、次のジョゼ寺院に預けるつもりだ」 「そう、そこで君はお別れなんだ。寂しいな……また、会えるかな」 ミユウは赤ちゃんを見つめながら、やわらかい頬をつついて言った。 赤ちゃんと、アーロンに向けて言ったのだろう。 「世話になった」 「ううん」ミユウは首を振る。 「すまない、俺は……」 「わかってる」 引き止めてはいけないひとだって、わかっているから。 「赤ちゃん、抱かせて」 アーロンは頷くと少し屈んだ。彼女の胸に身体を合わせ、赤ん坊をミユウに渡す。けれど、その小さな指は緋色の衣を掴んで離さない。二人をつなぐ掛け橋のようだった。 そのままミユウも身体を預ける。アーロンは赤ん坊の身体ごと、彼女を抱きしめていた。 二人の温もりと鼓動がアーロンの身体に伝わった。ゆっくりとしみこんでくる。 この温かさは、きっと忘れない。 ミユウと重なり合った二日間、限られた時間だから、こんなにも好きになったのだろう。 俺は君のそばにいられない。君だけを守ることはできない。 だけどこれだけは約束する。君とこの赤ん坊のために、『シン』と戦う。立ち向かう。 君が安心して暮らせるスピラ、ナギ節を必ず贈る。 君に―――会えてよかった。 静かに時間が流れていく―――。 すっきりと晴れた夜空に月が出ていた。 河の底に沈んでしまった都市の気配を感じながら、幻光河を渡って行く。 シパーフの進む方向とは逆に、かき分けられた水が流れていく様を、月明かりの中でアーロンは眺めていた。 赤ん坊はジェクトが抱いている。何でもひとりで抱え込まない、ジェクトの教えだ。 「ユウナにも、こんなときがあったね」 ブラスカはジェクトの腕の中を覗き込むと、すやすやと眠っている赤ん坊に目を細めた。 「あぁ、オレんとこのガキもな……こんなだったぜ」 遠く離れた我が子と重ね合わせて、二人の父親はとても穏和な顔になる。 「なぁ、ブラスカよう、こいつ何だかオレのガキのような気がしちまってな。オレが帰れねえから、あいつが会いに来てくれたんじゃねえかって」 「そうかな。私にはユウナに思えるけど。あの子に元気づけられている気がする」 そう言って、ブラスカは月を見上げた。月の名を持つ愛しい娘。 「なんて美しい月だろう」 「あん?……あぁ、ほんとだな。おいアーロン、見てみろ」 アーロンは水面から顔を上げると、群青の夜空におだやかな眼差しを向けた。 月が放つ青白い光が、水上のブラスカたちを優しく包んでいく。 その光に引き寄せられるように、光る布はジェクトの腕から消えていった。 赤ん坊の姿は、もうどこにも見えなかった。 心の奥にしまっていたそれぞれの想いに、幻光虫が反応して創りだした赤ん坊。 幻影だったのだろうか。 でもそれは確かに存在し、かけがえのない記憶を残してくれた。 幻光河の川風に吹かれながら、三人の男は赤ん坊が消え去った夜空を仰ぎ見た。 ―――ほんとうに、いい月の晩だった。 『ブラスカおじさん、ユウナのことは任せてください。 ユウナの親父さんってことは……俺にとっても親父になるのか?』 『アーロン、俺あんたとこれから10年暮らすことになるんだぜ。 あんたに見守られて、大人になるんだ。……楽しみにしてろよな』 『そして親父、俺……あんたの息子で良かった。生まれ変わっても、 またジェクトの息子がいい。心からそう思える』 自分の目で見たかったんだ。親父たちの旅、ほんとの気持ちを感じたかった。 ―――サンキューな、俺の……三人のオヤジ。 「ん、何か聞こえなかったか?」 「空耳だろう」 「そうだね」 シパーフはゆっくり進む。南岸が近づいていた。 「んでよ、アーロン。ほんとのとこはどうだったんだ。やっぱ、あのねぇちゃんとデキちまったのか?」 「うっ……」 「ふ〜ん、そういうことか。おめぇ、行く先々で女作るんじゃねーだろうな? ブラスカよう、ガードが若いと召喚士様もたいへんだーな」 「キサマに言われる筋合いはない!どれだけブラスカ様にご迷惑をかけたか、わかっているのか。ブラスカ様、こんな奴をガードにするなんて、やっぱり俺は反対です!」 「いまさら、な〜に言ってんだか」 「何だと!」 シパーフの背に揺られ、幻光河の流れる水音を子守唄のように聞きながら、うつらうつら……ブラスカは眠ってしまっていた。 夢を見ているような、いつもよりずっと優しい微笑を浮かべながら。 召喚士の運命も、ガードの覚悟も……明日でいいことは明日考えればいい。 漢たちの旅は、まだ始まったばかりなのだ―――。 ―完― Copyright (c) 2002 春告鳥
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