破滅へのプレリュード | |
「かあさま、どこにいくの?」 「・・・・・」 傍らに座る母の服に縋りつき訊ねる幼子の問いに、だが一切の表情を凍りつかせた彼の母は、前方を遠い瞳で眺めたまま応えない。 「かあさま?」 不安げに再度訊いてきた彼に、母の代わりにお付きの女官がそっと応えてやった。 「シーモア様、ほら、もう見えてきました」 応えながら女官が指差す方向に、鬱蒼と垂れ込める黒雲を敷き詰めた空が広がっている。そして、やはり暗い海の上に、寒々しい雰囲気を纏う古い遺跡が姿を現わしていた。 その余りの不気味さに、まだ幼いシーモアはひとりでに身体が震え出し、母に縋る手に力がこもる。 揺れる小舟の上、母子の他には先程応えた女官と舵を操る兵士が乗っているだけ。 今まで多くの者たちにかしずかれてきただけに、この落差は幼いシーモアにも尋常ではない現状を思い知らせる。しかし、彼は自分の心細さを必死で押し隠して言った。 「ぼく、平気だよ。かあさまがいっしょだから」 「シーモア…様・・・」 母を気遣う健気な子供の言葉に、兵士は痛ましげに顔を背け、女官は目頭をそっと袂でぬぐった。 けれど、聞こえているのかいないのか、母は石像にでもなったかのようにまったく反応しなかったのだった。 常に分厚い雲に覆われ、まるでそこだけ世界から忘れ去られている、そんな絶海の孤島というべき場所に、その遺跡はあった。 そして、めったにどころかまったく人が訪れることのないその場所 ―― バージエボン寺院 ―― に、四人を乗せた小舟は近づいていった。 半分水没している石階段に小舟を横付け、まず母が降り立った。自分から動いているのが不思議なほどのぎこちなさではあったが…。 続いて女官が手伝ってやって、シーモアが舟を降りる。次に降ろされたのは、当座必要と思われる食料と備品が少し。 当然、後に続くと思っていた残りの二人は、振り向いたシーモアの目の前で小舟に乗ったまま、既に遺跡から離れ始めていた。 「えっ!? まって! どうして行っちゃうの? かあさまと二人っきりになっちゃうよ」 何も知らない無邪気な問いに、堪えきれずに女官が鳴咽を洩らし始めた。兵士も沈痛な面持ちで歯を食いしばって舟を漕いでいる。 「シーモア様、……シーモア様、奥方様、…お許しください……」 彼らは、二人を降ろしたら自分たちは上陸せずに即刻引き返すよう、きつくきつく言い渡されていたのである。 彼女たちの夫であり父である、族長ジスカル、その人に。 グアド族において、族長の命令は絶対であり、また、この命令を下すにあたり、ジスカルがどれほどの苦悩の末の選択だったのかを知っているだけに、今ここで感情に流されるわけにはいかなかった。 それでも、愛おしんで世話してきた高貴な幼子のあまりの哀れに、女官は迸る思いを抑えることができなかった。 「どうか……どう…か、ご無事で…。シーモア様、母上様をお助けして、なんとしてでも生きて……」 次第に遠く小さくなっていく遺跡へと手を伸ばしながら、とうに涙にむせび意味を為す言葉にならなくなっても、女官はシーモアの名前を呼び続けていた…。 タッタッタッタッ・・・・。 あちらこちらが崩れかけた寺院の階段を小さい影が元気良く走っていた。その胸には一輪の白い花を抱えている。 ―― こんなところにも、花がさいてるなんて きっとかあさまに見せたら喜んでくれる、そう信じて走るシーモア。母の喜ぶ顔を一時でも早く見たくて、何度も転びそうになりながら。 あれから何日が経ったのだろう。 食料は、なくなりそうになる前に、いつのまにか最初に上陸した場所に届けられていた。それを誰が何時運んできたのかなど、小さいシーモアには考えを巡らせることも出来はしない。食べる物が少なくなるとその場所へ行き、粗末な袋に入った食料を見つけ胸に抱えて、母子の寝泊まりしている ―― 昔は僧官の居室だったらしい ―― 部屋へと運ぶことが、いつのまにかシーモアの仕事になっていた。 ここに着いてからというもの、母に表情が無くなった。表情どころか、生気そのものをどこかに置き忘れてきたようでもあった。幼い故に、シーモアが自分たちの境遇を理解できず母に問い詰めても泣き喚いても、母は何の反応も返さず、ただ日がな一日ぼうっとしているばかりだった。 愛し信じていた夫に受けた手酷い裏切り。 それまで懸命に育み築いてきたものをすべて取り上げられた絶望。 生きる気力をすっかり無くしたとしても、誰が責められるだろうか。 唯一、シーモアが手元にいるということだけが、彼女を生かしていたのかもしれない…。 そして、食べる眠るなどの生きるために最低限必要な動作さえもままならなかった彼女を生き長らえさせていたのは、幼いシーモアだった。 子供はお腹が空けば、食べ物を探して食べる。自然の成り行きである。が、母は食べない。不思議に思って「かあさまも食べよう?」と小さな手で口元に運ぶと、彼女は僅かに微笑み食べた。 ここへ来てからというもの、人形のようだった母が笑ってくれた。自分の手から食べてくれた。このことは、シーモアをこのうえもなく喜ばせた。 大好きな、かあさま。きれいな、かあさま。たいせつな…かあさま。 完全に隔離された、たった二人しかいない世界だからこそ。 今では、母がシーモアの世界すべてになっていた。 たとえ小さくとも、そこに生きる意義を見つければ必死になる。もしも母がいなくなれば、この寂しい孤島に一人ぼっちになってしまうという恐怖にも似た予感が、潜在的に彼の中にあったのだとしても……。 次第に母も表情と思考を取り戻していき、ついには会話も交わせるほどになった。シーモアがそれこそ真剣に、小さき手で母の世話をした成果であった。シーモアがかまわなければ、おそらく母は何もすることなくそのまま朽ち果てていただろう。 けれど、一度暗闇に塗りつぶされてしまった彼女の意思は、容易には回復しなかった。シーモアの手前、触れたくないことには触れず当たりさわりのない話はしていても。彼女の内には、どす黒い恨みと行き場のない怒りが渦巻いていたのである。 「かあさま、かあさまっ! これ見てっ!」 いくらそれほど広くはない遺跡とはいえ、ずっと走りっぱなしだったシーモアは荒い息のまま母の元へと駆けつける。 「まあ、シーモア。そんなに息をきらして。どうしたの?」 今ではすっかり落ち着いたかに見える母の微笑みは優しい。聖母のごとき大好きな母の笑顔をもっと輝かせたくて、シーモアは手にした花を差し出した。 「これ、かあさまに!」 「お花? こんなところに?」 たぶん雑草であろう一輪だけのその白い花は、小さな両手に抱えられて儚げに揺れている。 「うん、むこうのこわれたはしのところで見つけたの。ぼくが取ってきたんだよ」 「……シーモア」 しかし、喜んでくれると思っていた母の顔は、微かに曇る。 「かあさま?」 よく見ると、花を持つ手には小さな擦り傷がいくつもある。 「ありがとう。でも、母さまはあなたに危ないこと、して欲しくないのよ」 「へいきだよ、ぼくは男の子だから。かあさまがよろこんでくれるなら、なんだってするんだ」 「シーモア……」 そっと我が子を胸に抱いて。 「ぼく、かあさまがいてくれたらいいんだ」 柔らかな母の胸に頬を摺り寄せて呟くその言葉の裏に、幼子の気持ちが垣間見える。 とうさまに会いたい。ともだちに会いたい。みんなに会いたい。 だけど、それはかなわないこと。それを言えば、かあさまが悲しむ。 だから、絶対に言わない。 ぼくは、かあさまさえ、いてくれればいいんだ。 我が子の切ない気遣いが、痛い。身を切られるより、辛い。 けれども、どうすることもできないこの身が呪わしい。 何もできないこの身なら、いっそ・・・・・。 この時から、母の意志はある方向を向き始めていた。 後年、シーモアに召喚士の類稀な資質があると分かった時、彼女の意志は明確な形となった。優れた召喚士となり、強力な召喚獣を操れるほどになれば、たとえ排他的なグアドといえど、シーモアを認めないわけにはいかないだろう、と。 我が身を異形の身にやつしても、必ずシーモアをグアドサラムへ帰す。 見果てぬ夢だと、人は哂うだろうか…。 身のほど知らぬ野望だと、嘲るだろうか…。 けれど、真の絶望を経験した者にしか解らぬ、希望の光なのだ、シーモアこそが。 何を犠牲にしても、必ずやこの子をグアドの次の族長に! それが、シーモアからたったひとつの大切なものを ―― 母自身を ―― 奪ってしまうことになるとは、最後まで母は気づくことはなかった……。 「かあさまさえ、ずっとぼくのそばにいてくれれば、ほかには何もいらないんだ」 …そう、私は……私を、私だけを、ただ愛してくれる人さえいれば… ……その人が、私のそばにずっと居てくれたならば…… ………他には…何も…要らなかったのです……… | |
○あとがき○ |