翼に変えて 第七話・うたかたびと1 |
「う〜ん。やっぱりこのルージュ、ちょっと濃いかなぁ」 鏡の中のレンが、先ほどから百面相をしている。はたから見れば、笑ってしまいそうな光景だったが、当の本人はいたって大真面目だ。 先日から妙に落ち着かない気分を抱えていたレンだったが、今日になってそれが最高潮に達している。 今日はシューインに招待されたブリッツを見に行く日だから。 「そうだ。上着は? 上着…。 あれ?」 レンはあたりに散らばっていた服を掻き分けて、今夜着ていくつもりの上着を探す。けれど、なかなか見つからない。と、そこへ、この寺院で一番の仲良しであるマリサが部屋に入ってきた。 開きっぱなしになっていたドアを、マリサは片手を上げて申し訳程度にコンコンと横叩きする。 「あ、マリサ」 レンがちょうどベッドの上に重なった服をひっくり返しながら振りかえる。 「ちょっと、レン。なに? この有様…」 部屋いっぱいに広げられた服という服を見て、目を丸くしたマリサが呆れた声を出すが、そんなことはお構いなしに、レンは焦ってベッドの上や下を覗き込んでいた。 「ねぇ、それより緑の上着知らない? 確かに出しておいたんだけどなぁ」 「え…。緑の…? ……プッ! あははは!」 途端に笑い出すマリサ。むっとしたレンは少し尖った声でマリサを睨み返した。 「マリサ! なに笑ってるのよっ。一緒に探してくれたって…」 くすくすとまだ笑っているマリサが、レンを指差して。 「レン。その腕に掛けてるのは、な〜にかなぁ?」 「え? うで、って…。……!!」 レンが自分の左腕をよくよく見ると、目当ての緑の上着がちゃっかりと引っかかっている。 「あは…。あった……」 小さく舌を出し、肩を竦めるレン。マリサはまだ笑いが止まらない。 「ふふふ、まったく、最初っから持ってたんじゃないの?」 「そう…みたい…。えへ」 着ていく服をあれこれ悩んで着替えてから、出掛けに忘れないようにと上着だけは腕に掛けておいたことを、どうやら鏡を覗き込んでいる間に忘れ去っていたらしい。 「ふふっ。でも、珍しいわね、レンがそんなにぼうっとしてるなんて」 「そうかな?」 「そうよぉ。私たちの中じゃ一番しっかりしてるって、いつも寺院のおばさまたちが感心して話してるんだから」 「そんなことないよ。私だって、よく忘れ物とかして……」 ふと、レンの表情に宿った翳りに、しかし、マリサは気付かずに話し続けていた。 「ふふ、だってね、みんなあなたのファンなんだからそれも当然なんだけど。もちろん、私もね」 そのまま何事もなかったように、レンは感謝の笑みを浮かべる。 「うん。ありがとう。今じゃファンの人たちいっぱいいてくれるけど、やっぱりこの寺院のみんなが一番の私の理解者だもんね」 「そうよ。レンは私たちの誇りなんだから」 いかにも誇らしげにそう言うマリサを見ながら、微笑みの中に見えない寂しさを隠すレン。だが、レン自身、その寂しさがいったい何なのか、よくわかってはいなかった。 少し早めにレンは寺院を出て、スタジアムへと向かう。 歩きながら、つい今しがたマリサと話していた内容を思い出していた。 「いいなぁ、レン。シューインに招待されるなんて」 「何言ってるの。マリサには素敵な恋人いるじゃない」 「ふふっ。まあね。シューインほどかっこよくないけど」 「でも、とっても優しいって、いつもノロケてるくせに」 「うふふ。うんっ!」 そう言って、とても綺麗に笑っていたマリサ。羨ましい、とレンは素直に思う。恋をすると女の子は綺麗になると話に聞いてはいたけれど、まさにマリサがその見本だった。恋人ができる前と後とでは、マリサは随分変わったと思う。同じ女性のレンから見ても、本当に眼を見張るほど。 それまではレンたち寺院に世話になっている同年代の女の子数人といつも大声で笑い合ったり、少々太めだと悩んだりしていた彼女だったが、恋をしてからというもの、それがすっかり女らしい物腰に変わってきたような気がする。寺院に出入りしている業者であるその彼と、仕事が終わった後によく二人で寺院の片隅で逢っているのをレンは何度も見かけていた。その時のマリサの嬉しそうで幸せそうな笑顔を、いつも憧憬にも似た気持ちで眺めていた。 「恋人かぁ…」 ふと、シューインの顏が浮かぶ。スフィアで何度も見ているブリッツの試合の時の顏ではない、先日の礼拝堂での別れ際の……。 ふふっと思い出し笑いするレンの表情が、いつも彼女が憧れていたマリサの笑顔と同じだということに、レンが気づいているはずもなかった。 日も落ちてだんだんと薄暗くなる空に反して、夜になるとザナルカンドの街は活気を帯びてくる。昼間は成りをひそめているネオンたちが輝き出し、仕事を終えて一時の癒しを求めて歓楽街へと向かう人々が集まってくる。 まだ時間が早いからと、下層のスピードウェイ(自動通路)を使わずに最上層のハイウェイをのんびりと歩いていたレンも、周りの人々に感化されたのか次第に気分が高揚してきて足取りが軽くなる。久しぶりのザナルカンドの機能美の昼から夜への変化を楽しみながら、踊りだしたくなるような弾む思いで歩いていると、ふいに後ろから声をかけられた。 「あのっ、レンさん、ですよね?」 レンが声のする方を見ると、彼女と同じ歳くらいの男性が緊張した面持ちで突っ立っている。 「はい?」 「わぁ、やっぱりそうだ。ぼっぼく、大ファンなんですっ! この間のコンサート行ったんですっ。すごく感動して…。次のも必ず見に行きますっ。」 「あ、ありがとう…」 「あのっあのっ。握手してもらえますかっ?」 「えぇ…」 困惑気味のレンの様子などまったく構わずに、ファンだという男性はためらいがちに出されたレンの手を両手で握り締めブンブンと上下に振った。 「かっ感激だなぁ。これからもっ頑張って下さいねっ!」 と、一人で勝手に盛り上がり、興奮しながら離れていった。とりあえずはしつこく付きまとわれなかっただけマシといった感じで、レンはふぅっと大きくため息をつく。 コンサートの前後ならば、やはりそれなりの心構えもあるから平気なのだが、こういったプライベートでああいう反応をされることに、レンは未だに戸惑いを覚える。 「仕方ないか…」 手にした小物入れの中から、ごそごそとマリサから手渡された帽子を取り出す。それを被りながら、レンは出掛けにマリサに言われたことを思い出していた。 「レン、まさかそのままで行く気?」 「うん、そうだけど…?」 「レンってば、自覚なさ過ぎ! 自分が有名人だってこと、もっとちゃんと理解しないとダメだよ」 呆れ顔でそう言ってマリサは自分の部屋からレンの服に合うようにと、薄い緑色の少しだけツバ広の帽子を持ってきて貸してくれた。 「帽子一つでもね、案外わからなくなるものなのよ」 帽子を被ってからは、誰一人として声をかけられることなくスタジアムへと着くことができた。レンは「なるほど」と変に納得してしまう。 人通りが多いザナルカンドの中心街の中でも、さすがにスタジアム前は人々がいくつも行列を作っていた。レンのコンサートの時もそうなのだが、やはりブリッツの試合ともなると、人々の興奮の度合いが違う。 レンもワクワクする思いを抱きながら、人の波に紛れて受付へと向かった。 受付で自分の名前を告げて、チケットのことを聞くと、係りの男の子がもの問いたげな変な顔をしてチケットを渡してくれた。レンは知らん顏してそれを受け取るとお礼を言い、さっさと受け付けを後にする。 背後から「なあ、あれって…」という受付の子たちの話し声が聞えてきても、まるっきり無視して…。表面上はすました顔のレンだったが、その心中はまるで悪戯っ子が悪戯に成功した時のように「やったね!」と大はしゃぎしたい気分だった。 指定された座席に着いて、改めて周りを見まわすと、開始時間はまだだというのに既に観客席は満席に近く興奮に包まれていた。レンもなんだか興奮の度合いが高まってくる。初めてブリッツのゲームを生で見るという以上に、シューインに逢えるということの方が嬉しい。 初めて逢った二日前から、シューインのことがずっと頭から離れなかったレンだったから…。 「早く始まらないかなぁ」 一方、シューインはというと。 「おい! シューイン、目障りだ。ちったぁ静かに座ってろ!」 「あ。 わ、悪い…」 すごすごと自分の席へと戻るシューイン。 しかし、しばらくすると、又、ソワソワ・ウロウロと歩き回り始める。 今日のシューインは選手控え室に入ってからというもの、この光景の繰り返しだった。 あれから、シューインもレンと同じように彼女の面影を一時も忘れられなかった。それがどうしてなのか、彼自身、不思議でならなかった。 シューインは、その環境から、今まで付き合う女性に苦労したことはない。まだ幼い頃から、彼の背後に控える権力に引き寄せられてくる男女は大勢いたし、両親に反抗して遊びまわっていた頃でさえ、その容姿に惹かれて彼の身分を知らずに付き合った女の子たちもいっぱいいた。その中には、レンよりももっと妖艶な美女も、華やかで楽しい子もいた。 けれど、それらの付き合いは決して長続きしたためしがない。それは、女性たちが彼の権力や容姿目当てだったということ以上に、恵まれ過ぎた環境のせいもあったのだろう、彼の執着の無さが一番の原因といえる。こと女性たちは、一旦、彼の特別な存在なのだと自覚すると、すぐに彼を独占したがった。本当に些細なことで、嫉妬ややきもちを焼かれることは日常茶飯事だった。そうなると、彼はもうダメなのである。一切合切が嫌になる。そして、すぐに訪れる破局。今度こそはと思って、期待に胸を膨らませて新しい恋をするけれど、いつも期待を裏切られて終わる。簡単に手に入れられるからこそ、簡単に切り捨てられる。その構図を分かっていない彼には、本物の恋愛など、到底理解できないことでもあった。 しかし、今度は全然勝手が違う。 今までブリッツにしか持ったことのない執着心に侵食されている自分自身に、シューインは戸惑っていた。 ―― 彼女は、レンは、本当に来てくれるんだろうか… ―― あの寺院に、住んでるんだよな… ―― 逢ったことないって言ってたけど、でも、確かにどこかで… ―― ああっ、もっとあの時、いろいろと聞いておけば良かったっ ブリッツをやっている時以外、ずっと同じ考えが堂々巡りを続ける。今まであまりそういう状態になることがなかったためにめったに見られないのだが、本当は夢中になると回りが見えなくなる性格から、控え室中を歩き回って頭を抱えたりぶつぶつと呟きながら爪を噛んだりするシューインを、薄気味悪そうに「なんだコイツ」とチームメイトが眺めていることでさえ、まったく気付いていないシューインだった。 そんな挙動不審溢れるシューインだったが、ことブリッツの練習になると、今まで以上に張り切って、いい動きをしているものだから、文句の一つも言えないチームメイトたち。 だが、さすがに試合直前ともなると、シューイン本人だけでなく回りへの影響も考えたチームリーダーのドルーが、やっと彼のお守りを買って出た。シューインよりも縦も横も二回りほどでかい身体が、背後から彼の肩をガッチリと掴まえる。 「うあっ」 「よぉ、シューイン、どうした? こないだからお前、変だぞ?」 苦しさに、なんとか腕を外そうとジタバタするシューインだったが、シークスのディフェンスの要であるドルーにぶっとい両腕でロックされていては、そう簡単に動けるはずもない。 「な、なんでも…」 「なんでもないはずねぇだろ? そんだけ落ち着きがなきゃ誰だってわかるさ」 「っく苦し…はなっ…」 「おう、悪りぃ悪りぃ」 つい力が入っちまった、ガハハと笑いながら、やっとドルーが腕を放す。そのまま、げほげほと咳き込むシューインを連れて、注目を浴びている部屋の真ん中から隅の窓辺へと移動したのは、さすがにリーダーならではの配慮だったが。 窓から望む煌びやかなザナルカンドの夜景を見やりながら、シューインが一息つくのを待ってドルーが改めて聞いてきた。 「新しい彼女でもできたか?」 「………。まだ……そんなんじゃない」 お? と、心底意外そうな顔をしたドルーだったが、戸惑うように視線を彷徨わせるシューインをまじまじと見つめて、すぐに納得の苦笑いを浮かべていた。 「ふ、ん。なるほどな。お前さんにもやっと、か…」 「え? 何が?」 ニヤニヤと薄ら笑うドルーに対して、さっぱり訳が分からないという顔のシューイン。 「いや、こればっかりは口で言っても分かりゃしねぇよ。自分で確かめな」 「は? ドルー、何言ってるのか分からないよ」 「いいってことよ。すべてはこれからってことだな。おうさ、頑張れよ!」 「???」 勝手にそれだけ言い残し、鼻歌混じりの楽しげな様子でドルーがシューインから離れていった。 ドルーが何を一人納得していたのか、シューインはまったく分からなかったが、この話を盗み聞いていたチームメイトたちは皆ドルーと同じことを理解していた。 今の今まで、シューインが女性と付き合うことにためらう姿を見たことがなかったから。 磁石に引き寄せられる蹉跌のごとく寄ってくる女性たちに、いつも流されるように付き合い別れていた彼の、真剣に悩んでいる姿など、初めて拝むことだったから…。 どうやらやっと本物の恋に目覚めたらしい我がチームのエースを温かい目で見守ってやろう、そんな空気が控え室の中に流れる。その思いの中には、いつも見栄えのいいシューインにばかり目がいくシークスのファンの子たちも、彼に特定の恋人でも出来れば、自分たちへと目を向けてくれるのではないかというちゃっかりとした下心も含まれていたのは、言うまでもない。 周りの思惑などどこ吹く風のシューインは、ドルーが去った後も窓から見える夜景に見入っていた。あの朝、爽やかに笑っていた彼女の面影を脳裏に描きながら…。 ―― レン… シューインがやっとその思いを現実に戻した時、スタジアムに試合開始予告のブザーが鳴り響いていた。 − 第七話 END − |
○あとがき○ |