翼に変えて 第十四話・時の鳴動4 |
レンは、シューインが帰っていってから三度目の朝を迎えていた。 その間、ただの一度も彼からの連絡はなかった。 一日目は仕方ないと思った。ブリッツのスター選手であるにも関わらず、ずっとレンに付き添ってきてくれたのだから、きっと待ちかねた人々に捕まって連絡もできないほど忙しいのだろうと。 二日目になると、それでも不安を覚え始めるレン。互いの気持ちを確かめあってからまだ間もないとは言え、どんなに忙しかろうとあのシューインがレンに一日以上も連絡しないなんて、余程のことでもあったのだろうか、と。 そして、三日目になると、もうレンは不安を抑えられないでいた。 シューイン自身に何かがあったのでは? 身動きできないような何か ―― 病気? まさか、事故にでも? 二人の繋がりを知っている人物はまだほとんどいない。シューイン側にはおそらく皆無だろう。彼の身の上に何か重大なことがあったのだとしても、それをすぐに知らせてくれる期待などできない。 打ち消しても、打ち消しても、次々と嫌な憶測ばかりが先走る。 「何があったの? シューイン……」 せっかく順調に回復していた体力が気力が、ただシューインがいないというだけで足踏みをしているかのように萎えていく。 心配して何度も部屋を訪れてくれるマリサが、レンの気持ちを推し量るような口調で控えめに言った。 「ね、レン。シューインだってプロのブリッツ選手だもの。本当は毎日練習だってあったんだろうし。なのに、ずっとレンに付き添っていてくれたのよ? きっとどうしても連絡できないほどの急用が立て込んでるんじゃないかな…」 レンにはわかってると思うけどね、と付け加えつつ、慰めてくれる。 もちろんレンも、そう頭では理解していた。けれど、感情で理解できない。 そんな己に驚きつつ、恋を知ったからこその危うさにも、レンもようやく気がつき始めていた。 以前は一人でいることに、とりたてて寂しさを感じたことはない。もちろんいつも大勢の人々が出入りしている寺院で暮らすレンは、完全に一人になるなどほとんどなかった。が、それでも自室にいる時はいつも一人でいたし、そういう一人の時間がむしろレンは好きだった。召喚士ゆえに人に会ったり、大勢の人々の前で歌ったりすることが生活のメインでもあった彼女は、常に人目にさらされる生活を強いられている。だからこそ、一人でいられる空間と時間はレンにとって貴重でもあった。 けれど、今。 この部屋にシューインがいないということが、こんなにも寒々しい気分にさせる。この部屋の主である自分よりも、より部屋に馴染んだ彼の面影をつい目で探してしまう。 彼の優しい瞳に見つめられたい、力強い腕に抱きすくめられたい、温かな胸の鼓動を聞きたい。 ―― いつのまに、私、こんなにわがままになったのかな… 彼が傍にいないだけで、こんなにも寂しいなんて。ただ、彼のことを考えるだけで、涙が込み上げてきそうになるほど。 レンは、初めて経験するこの想いが、次第に愛しくさえなってくる。 ―― だって、寂しければ寂しいほど、それは私が彼のことを愛しているということ。 けれど、そんな気持ちをも大きく凌駕するほどの不安。 ―― シューイン…! スタジアムが不自然に揺れている。 どぉんどぉぉん、と音にならない地響きを伴って、人っ子一人いない巨大なエボン・ドームを揺るがしているのは、たった一人の女性。 「あぁ……」 やっと物が識別できる程度の薄明かりの中、広いドームの真ん中で一心不乱に祈り続けていたユウナレスカが、力尽きたように崩れ落ちた。極度の疲労にやつれ果てたその容貌は、しかし、壮絶なまでの雰囲気を纏って痛々しいほどに美しい。額に滲む汗と悔しさに流れる涙が、その美貌を更に鮮やかに彩っていた。 「それで限界か、ユウナレスカ!」 離れた場所から見守っていたエボンの鋭い叱咤の声が、細い腕(かいな)でやっと我が身を支える彼女の耳を突き刺す。 二人が、完全に外界から遮断されたエボン=ドームの中に篭ってから、はや、数日が過ぎ去っていた。 時間がない。 我が娘を憐れに思う親心をも押し殺して、エボンの冷徹な怒りの叱責が飛ぶ。 「そんな状態では、到底、究極召喚など無理というもの……」 そう言われた途端、気丈にもキッと顔をあげてユウナレスカが言い募る。 「もう一度、もう一度、やらせて下さい、お父様!」 一瞬、エボンの中に憐憫の思いが過ぎる。 だが、ここで親子の情に流されては、すべては水の泡と消えてしまう。 エボンは強く目を伏せ、天を仰いだ。 その時だった。凛とした張りのある声が投げかけられたのは。 「ユウナレスカ! エボン殿!」 離れた場所で、父娘が声のした方へと振り返る。 その声の主が、このドームに入ることを許されている、もう一人のものであることを確信して。 「ゼイオン!」 「ゼイオン、帰ったか!」 灯りの届かぬ暗がりの中から、背の高い逞しい体躯がゆっくりと姿を現した。煌びやかな鎧は、常に戦場において対峙するものを恐怖へと貶めるほどの荘厳さが漂っている。 圧倒的な存在感を持った、その人物、ゼイオン。 が、彼はいつになく憂いを帯びた表情を貼り付けたまま、歩を進めていた。 ゼイオンと同時に、エボンもまた、ドーム中央のユウナレスカの元へと歩み寄ってきた。 彼らが近づいていくと、力の入らない身を懸命に起こしてユウナレスカが立ち上がる。 それでも、とうに限界を超えていたのだろう、フラリと再び倒れそうになるのを、素早く寄り添ったゼイオンが支えた。 「ゼイオン、ゼイオン、待っていました…」 己を支える逞しい腕に縋り、愛しい人の名を、無意識に連呼するユウナレスカ。 「遅くなってすまない、ユウナレスカ」 愛し合う二人が、久方ぶりの逢瀬にしばしすべてを忘れて抱きあう。それを優しく痛ましげに眺めやるエボン。 厚い胸に顔を埋めて、鎧越しではあっても愛しき人の鼓動を両手と頬で確かめていたユウナレスカが、そっと瞳を開けて見ると、ゼイオンの身体の異変に気づいた。 「ゼイオン! その傷は…!?」 今まで、ユウナレスカはゼイオンが負傷したところなど見たことがなかった。いつも将軍でありながら戦場の激しい最前線で戦っていたとしても、その類稀な戦闘能力によって、相手に傷を負わせても自分が被ることなどなかった彼が、見るからに重傷とわかるほど凄惨な姿だったのだ。 「…………」 もとより、ゼイオンに応えられようはずもない。 言い訳を良しとしない彼に代わって、エボンが鎮痛な面持ちで告げていた。 「やはり、ゼイオンほどの者をもってしても、この戦争の劣勢は覆せぬか……」 「……、私の力の至らぬばかりに、弁明のしようもありません」 身体の傷より、より多くの痛みを負った矜持を奮い起こして、ゼイオンが言葉を吐き出す。 「いいえ、いいえ! ゼイオンのせいではありません! あなたの……」 ゼイオンの腕の中、ユウナレスカが子供のように彼をかばうための言葉を探して叫ぶ。 ほんの少しの間を置いた後、ゼイオンがユウナレスカの白く細い指先を手甲で覆われた手で愛おしそうに包みながら、静かな怒りを露わにして語った。 「だが、頼れる将軍たちのほとんどが倒れてしまった今、このザナルカンドを守れるのはもう私しかいないのだ…。それなのに、この様とは……」 最後の前線であったガガゼト麓の荒野での先の戦いに敗れ、もはやベベルのザナルカンドへの侵攻を阻む手段も潰えてしまった。怪我よりも、己の不甲斐なさに全身の震えを抑えきれないゼイオンだった。 「召喚士ももはや数えるほどしか残っていまい。兵力とて同様だろう。ゼイオン、そなた一人ではもう如何ともし難いところまで来てしまったのだ……」 「ですが、エボン殿。いいえ、父上! それでは誰が、このザナルカンドを、ユウナレスカを守るのですか!?」 絶望を無理矢理抑え付けているかのようなゼイオンのその言葉に、視線を交し合った父娘が、静かに心の内に秘めた決意を吐露し始めた。 「私は、もう、このスピラでのザナルカンドは諦めるしかないと決めた」 突然のエボンの重大発言に、ゼイオンは驚愕を隠せない。 「なっ!? なにを……」 彼の腕の中の妻が、大きく上向いて囁くように告げる。 「以前、お話したことがあるでしょう? 究極召喚のことを。 お父様は、その究極召喚でザナルカンドを生かす道を選ばれたのです…」 「……究極召喚…」 呆然と、その言葉をかみ締めるゼイオン。 その全貌はわからずとも、究極召喚がいかなるものであるかは、ユウナレスカの夫となった時から何度か聞かされてはいた。スピラ広しといえども、たったこの三人しか知らない最重要の極秘事項が、もう他に手立てのない場合の「最後の選択」だということも。 戦場における真の情勢を常に目前で見ていたゼイオンだけに、エボンの選択に異論を唱える余地はなかった。 「…そう……もう、それしか方法はない…のですね…」 本来なら華々しく戦場で散ることこそ本望とする戦士でありながら、名声が泥にまみれようとも最後まで生きて、ザナルカンドを、ひいてはユウナレスカを守り抜くことを最優先としてきたゼイオンだったから、エボンのザナルカンドに対する妄執とも言える決断には多いに共感できるのだった。それが、自然の流れや人の道から大きく外れているのだと、わかり過ぎるほどわかっていたとしても…。 抱きしめる力の緩んだ夫の腕からゆっくりと離れ、ユウナレスカがしっかりと両手を組み合わせ、傷ついた巨躯を癒す呪文を唱える。たちまち煌く光がゼイオンを包み目に見える傷が塞がっていく。その様を見てホッと一息ついた後、彼女は頭一つほども違う長身の我が夫を見上げて乞うた。 「ゼイオン、聞いてください。お父様と私、そして、ゼイオン、あなたにも手伝ってもらわなければ、究極召喚は完成しないのです」 「…………」 悲愴な表情とは裏腹に、ユウナレスカの瞳は強い意志の光を宿していた。 彼女の視線を柔らかく受けとめてフッと微笑み、ゼイオンは再び愛しい妻を腕の中に引き寄せる。 「言うまでもない。我が身はもう既に、ユウナレスカ、そなたに捧げている」 ピクリと震えたユウナレスカが、振りきるように首を振り逞しい鎧の胸に頬を寄せる。そして、いつのまにか溢れてきていた透き通る涙と、熱い想いでそれを濡らしていた。 「ゼイオン…」 その様子を黙って見つめていたエボンは、満足げに頷いていた。 「ユウナレスカ。先ほどの言葉、撤回しよう。お前たちの覚悟はしっかりと見せてもらった。それほどまでに強い絆をもってすれば、きっと究極召喚は完成することだろう。口惜しいことに、私にはもうそれを見届ける時間は残されていない。後は、お前たちを信じよう。私は一足先に、行かねばならないのだから……」 「お父様……」 やっと認められた嬉しさよりも、いよいよだという切迫した思いが二人に押し寄せてきて、緊迫した雰囲気があたりを包む。 「その前に、ゼイオンにはもう一働きしてもらわねばならない」 「それは?」 「ベベルがザナルカンドに侵攻してくるのは、もはや止められない。だが、そのルートが問題だ。ゼイオン、ベベル本隊がガガゼト山を登らないよう、できるか?」 「……それくらいならば容易ではないかと…。ロンゾ族のこともあります。多少の工作をするだけで、雪道険しいガガゼトの山道より山を迂回する道を選ばざるを得ないようにするくらいなら…。ですが、父上……?」 そこでエボンは、少しの失笑を顏に浮かべた。 「いくら私だとて、究極召喚は一人ではできない。だが、第一段階では私一人でやるしかない。お前たちには、その後の役目があるのだから。そこで、霊峰の力を借りるのだよ」 そして、新たな存在たるザナルカンドを召喚するための聖地としてもガガゼトが最適であることを、エボンは二人に説明していった。 ザナルカンドの民衆すべてを「祈り子」と化す。霊峰ならば、祈り子たちをもその身に取り込み、永遠に守ることも可能であると。幸いにもガガゼトはザナルカンドのすぐ隣に位置している。短時間での民衆の移動も、そこまでならばなんとか可能だろう。 その後、自分自身が核となり、ザナルカンドを別の次元に召喚するまでがエボンの役割。 ユウナレスカとゼイオンは、エボンがいなくなった後、必ず生じるであろう誤差的な事象を修正しつつ、障害となり得るものを排除する。そして最終的には、核となるエボン ―― ザナルカンドを永遠に召喚し続ける ―― を、いかな手段を用いても守り続けることのできる、より強固な究極召喚まで高めなければならない。 悠久の時を超える、遥か未来まで。 それこそが、二人の役目であり、それでようやく、この失敗の許されない「真の究極召喚」が完成するのだということも………。 その日の午後遅く。 レンは寺院の庭をもの憂げに歩いていた。シューインがいた時には必ず彼が付き添っていたのだが、今はマリサがついてきてくれていた。「もう大丈夫だから」とレンがいくら言っても、「もしものことがあったら、私がシューインさんに怒られちゃうんだから」と断固として譲らずに。 二人でゆっくりと木々や草花の間を縫うように歩いていると、そろそろ夕の刻が近くなってきたのか、長く伸び始めた二つの影が背の低い草むらの上を撫でていく。いつもならすぐに弾むはずのおしゃべりも、どうみても無理をしているとわかるレンの口ぶりが重い。 シューインから連絡がないことで、レンの気持ちが塞いでいることはマリサにもよくわかっている。無駄と思いつつも、何度目かの励ましの言葉をかけようとした時、ふと、彼女たちの足元に、別の長い影が落ちていることに気がついた。 「レン…」 そっと、マリサが促すように声をかける。 「ん?」 呼びかけに、レンがまず彼女の顔を見て、それが指し示す方を見る。 傾き始めた夕陽を背にして、シューインが立っていた……。 − 第十四話 END − |
○あとがき○ |