「ただいま…」 声をかけても、応える者はいない。 使用人も清掃機械も、既にその役目を終え、それぞれの休む場所へと戻っている頃合である。ザナルカンドでは、他の地方都市などとは違い、そういう個人主義がごく当たり前に徹底している。 彼は、ふっと小さく息を吐き出して、いつものことだと軽く瞬きをして気を取り直す。
広いエントランスを抜けて、二階の自室へと、彼は仰々しい螺旋階段を上がっていった。いつの時代のものか知らないが、エントランスのあちこちに飾られた豪奢な調度品を横目で眺めながら。
この家にはザナルカンドらしさが、ない。 何を好きこのんでこんなだだっ広い屋敷をわざわざ機械化せずにおくのか、未だに彼には理解できない。いや、しようとも思わない。 高い吹き抜けの天井から吊られた煌びやかな照明具。シャンデ・・・なんといったか…。まったく興味なんてない。確かにきれいだとは思うが、灯りはちゃんと物が見えればいい。 曲がりくねった肘掛のついた椅子やら、様々な模様らしきものが掘り込まれたテーブルに…。何の意味があるんだろうと首を捻るばかりだ。 むしろ、くたくたに疲れきったこの身体を速やかに自室へと運んでくれるキャリーソーサ(つまり自動搬送装置)を設置して欲しいと思う。そういう、今ではどんな小さな家でも常備されているようなモノでさえないのは、ザナルカンドではもうこの家くらいなんじゃないか…? 両親のレトロ趣味もいい加減にして欲しい、と舌打ちをしたくなってくる。それゆえ、使用人などという、今ではほとんど見受けられないような職種の者たちまでが家中に必要になっている訳で…。中には、まあ、先祖代々受け継がれてきている物や風習もあるのだろうが。
重い足取りでやっと二階へと辿り着いて、きちんと磨かれ光っている廊下を通り、自分の部屋のドアを開ける。どこを通っても、灯りは充分のはずなのに寒々として薄暗く感じてしまうのは、やはり人気がまったくないからだろうか…。 限界にきていた足をもつれさせながら、窓際にあるベッドへと倒れこむように横になる。しばらく目を閉じて眠気と戦っていたが、仰向けに身体の向きを変えた途端、視界に大きな窓からザナルカンドの夜景が鮮やかに飛び込んできた。
しばし、疲れも忘れて美しい光景に見入ってしまう。 『このロケーションだけは、親に感謝かな?』 彼の家はザナルカンドの真北にあたる、一般の民家数十件分にもなるほどの広大な敷地の中にあった。屋敷と言った方が適切だろうか…。だから、二階の南側に位置する彼の部屋からは、ザナルカンドの夜景が何も邪魔するものなく見渡せる。 もちろん、昼間のザナルカンドも機能美溢れる精悍さがある。しかし、夜のそれとは比べ物にならない。 これでもかと競い合うネオンの数々。 幾層にも重なるハイウェイの上を流れる光の洪水。 それらを反射してキラキラと輝く水柱橋の壮大さ。 夜特有の淫靡な香りも漂わせて、夜空の星々も恥ずかしげに身を隠したくなるほどの艶やかさだった。
彼の父は、ザナルカンドでもっとも有名な人物の一人である。ベベルと違い、いわゆる民主主義的理念を掲げているザナルカンドは、都市国家としての機能は人民の意を受けた代表たる<評議会>が動かしている。父は、その評議会の現議長なのである。それも、人望厚く、既に何期にも渡って議長を勤め上げていた。ザナルカンド有数の名家の出という育ちの良さに加えて、トップに居座り続けるための手練手管を父は兼ね備えていた。時には非合法に手を染めることさえ厭わないほどに。
「政治はきれいごとだけではやっていけない」 それが父の口癖でもあった。だが、それがまだ若い彼にとっては、とても許容することのできないことでもあった。だから、後継者たらんと望み、彼が成長するごとに経済学や人心学などいわゆる帝王学と呼ばれる教育を施そうとする父に、次第に反発していった。 ある時、激しい口論の末、「青い潔癖さなど、何の役にも立たない」とまで言われ、激昂して家を飛び出した。まだ10を超えたばかりの歳でありながら、真夜中の市街地を彷徨い泣きながら、それでもこんな自分のままでいたい、と強く心に決めたこともあった。
瞬く光たちにそんなことを思い巡らしていると、ふと、部屋の片隅にある、今ではほとんど捨て置かれた状態のクラヴィツィンが目に入った。本来なら埃が積もっていてもおかしくないほどに放置されたクラヴィツィン。おそらく、彼のいない間に使用人か清掃機械によって、毎日のように清掃されているのだろう。知らず知らずのうちに、彼の唇の端が歪む。 クリスタルパイプが堂々と取り付けられた、白い鍵盤も真新しい、苦い記憶の楽器。
まだ幼い頃、訳も分からず毎日これの練習をさせられていた。ザナルカンド一と謳われる母の指導の下で。クラヴィツィンにかけては右にでるものがいないと賞賛されている母。だが、彼はどうしてもこの楽器が好きになれなかった。厳しい練習のたびに、何度も何度も、やめたいと泣き叫び頼んだ。その都度、何も言わずピシリと彼の指を叩いては、厳しい表情のまま、母は先を促していた。小さい指が赤く腫れ上がり、動かなくなるまで。 確かに技術だけは向上したのだろう。プロ中のプロから仕込まれたのだから。しかし、いくら練習しても嫌々やっていたのでは、ある程度のレベルからは上がれるものではない。そのことが、どうしても母は理解できなかったらしい。
それこそ物もわからぬ子どもの時分は、母に連れられ演奏会なるものも何度も経験もした。ただ言われたままに演奏しているだけだった彼は、他の共演者である同年代の子どもたちが、自分たちの演奏の成功不成功に一喜一憂する様がさっぱり理解できなかった。彼にとって、身の内から湧き上がる情熱というものとは、まったく無縁の世界であり、時期でもあった。
「好きこそ、ものの上手なれ、ってか? ははっ。」 自嘲気味に呟いた言葉が、重く自分自身にのしかかってくる。 「よっ」 掛け声とともに上半身だけ起き上がり、ベッドサイドに吊るされていたボールに手を伸ばす。
ブリッツボール。
「今は、俺にはこれがある!」
それぞれ勝手に彼の将来のレールを敷きたがる両親に対して、少し前まではただ反発することしか知らなかった。言われるがまま従っていた子供の頃と違い、多感な年頃になってきてからは、クラヴィツィンの練習をサボり、議員たちの集まるというパーティをすっぽかし。夜は眠らない街へと繰り出し、そこで知り合った仲間たちと遊んだ。そんな仲間は履いて捨てるほどいた。 後から聞いたところによると、その頃の彼はひどく暗い瞳をしていて、とてもほおっておけなかったのだということだった。それを聞いた時、彼は自分のあまりの憐れさに笑いが込み上げてきたものだった。 そして、昼間の、両親がいない時間を見計らい帰宅して眠る。両親の怒りや苛立ちを目の当たりにしている使用人たちの愚痴や忠告には、まったく聞く耳を持たなかった。 そういう荒れた日々がしばらく続いていた。
こんなことはいつまでもやってはいられない。
それは彼自身にもよくわかっていた。両親はさすがに粘り強く説得してきたが、ただただ逃げ回ることしかできなかった。そういう自分が情けなくて仕方なかった。
何か…何かが…
足りないのか、欲しいのか
それさえも分からない……
焦り。憤り。乾き。嘆き。
そして、―― 弱さ。
自分の中の一番正視したくない感情が、ぐるぐると渦巻き、荒れ狂っていた。
そんな時だった。
ブリッツに出会ったのは。
正確には、出会わせてもらったと言うべきだろうか…。
あれは…。
いつものように夜の街を遊び回り、ぐったりとした疲労を帯びて家路についていた、まだ暗い明け方近く。 入り組んだ下町の路地裏の通りを、一本、間違えてしまった。おそらくいつもよりもひどく疲れていたせいもあったのだろう。 その日、家を出ようとした時に運悪く父と遭遇してしまった彼は、案の定、激しい口論の末、またもや、飛び出す形で家を出てきた。そういう最悪な気分を引きずっていたものだから、その夜の彼は仲間たちにも事あるごとに突っかかり、因縁を吹っかけた。あげく、他のグループとのケンカ騒ぎまで起こしてしまっていた。 一応、戦時中ということもあって、有志による自警団が駆けつけそうになり、慌ててその場から仲間と共に逃げ出し、なんとか事なきを得た。明け方も近かったこともあり、そのまま散会。帰る道すがら、仲間たちに悪いことをしたと、反省しながら俯き加減に歩いていたのだった。しばらく歩いて、ふと、見慣れない光景に戸惑い、道を間違えたことにやっと気が付いた。 そして、慌てて引き返そうとした時。
澄んだ歌声が聞こえた。
それは、旋律に小さなハミングを乗せただけの歌だったが、心が洗われるような、でも、胸が締め付けられるような切なさを含んでいた。 『誰が歌ってるんだ?』 引き寄せられるように、彼はその歌の聞こえてくる方角へと足を向ける。 『なんてやさしい…、だけど、深く胸に沁み入ってくる…』 歌声から、若い女性らしいと想像をあれこれ巡らせる。しかし、あと少しというところで、その歌声は止んでしまった。彼は自然と足取りを早めて、たった今まであの歌が聞こえていたはずの場所へと急いだ。暗かった路地に朝日が差し込んで、次第に明るくなっていった。 唐突に路地が終わり、目の前がひらけた。
だがそこには、歌っていたはずの女性らしき姿は、もうどこにもなかった。 代わりに、子供たちが数人、ボールで遊んでいたのだ。彼もよく知っているブリッツボールで。 そこは、様々な機械や家具、建材などが煩雑に置かれた小さな広場だった。真ん中あたりがちょうどボール遊びのできるほどの空間になっている。広場の向こうには、倉庫らしきものが見え、その先はどうやら海になっているらしい。倉庫と倉庫の間に微かに海面が光って見えた。おそらく道を間違えたせいで、自宅とは全然違う方角にある海辺の倉庫地帯にまで迷い込んできていたのだろう。
歌声の女性に逢えなかったことに、自分でも不思議なほどの失望感を覚えた。脱力してヘタリと足元に座り込んでしまうほど。
と、その目の前に、コロコロとブリッツボールが転がってきた。 「お兄ちゃん、ボールとって〜」 ボールの持ち主であるらしい子供が、遠くから手を大きく振って声をかけている。その無邪気な様子に、思わず微笑みが漏れる。自分もああいうあどけない頃があっただろうかと。彼はフッと頭を振って小さく笑い、ボールを手に取り立ち上がった。
「よしっ! ほら、行くぞっ!」
ボールを宙に舞わせ、思いっきり、蹴った。
バシュッ
『…えっ…?!』
思いがけないほどの、爽快感!
ハッと、彼は自分の手と足をマジマジと見つめていた。
足先から指先から…身体全体が、ひとりでに、熱く…なっていく……。
飛ばし過ぎたボールは、子供たちの頭上を高く越えて、大きな放物線を描きながら遥か向こうまで飛んでいってしまった。 「すげ〜!」 「とばしすぎだよー、お兄ちゃんっ!」 子供たちの賞賛と非難の言葉も、遠く彼方で響いているだけ。 いくら声を掛けても動こうとしない彼に見切りをつけた子供たちは、何かを喚きながらそれでもとても楽しそうに、ボールを追いかけてみんな行ってしまった。 子供たちが倉庫の向こう側に消えてしまうと、にぎやかだった広場が静まりかえる。
後には、彼一人だけが立ち尽くしていた。
大きく見開いたままの瞳には、昇り始めた朝陽がくっきりと映り、そして力強く輝き始めていた。
「俺、俺は………」
それが、自分が探していたものに、やっと、巡りあった瞬間だった。
Illusted by Yusuke
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