夕焼けが、好きだった。 ここから見る、灰色の山に吸い込まれて消えてしまうような夕陽が、 何よりも好きだったんだ。
僕が住む村の中央広場には、村の皆が共同で使っている給水塔がある。 もう既に作られてから大分長い間経っているとお母さんに聞いていたけれど、今でもその頑丈さは微塵も衰えてはいない。日々の雨水と、風とを受け止めながら、それでもなお本来の与えられた役割を果たし続けている。 今も。そして、これからも、ずっと。 でも、最近ではこの給水塔にも新しい役割が与えられていた。といっても、村に住む子供達が勝手にやっていることなのだけれど。 子供のうちは誰もが、発明家だ。 公園に置かれているブランコや滑り台、ジャングルジムなどの用途を、ある程度までは大人もいろいろと考えてなるべく危険のないような作りを目指すけれど、子供は必ず、それ以上の遊び方を発明してしまう。例え、それがもともと遊ぶために作られたものではなかったとしても、日常のありとあらゆるものを遊ぶ道具にしてしまえる。それは、ひし形に組まれたフェンスの上を綱渡りの要領で渡ることだったり、誰も住んでいない空き家に忍び込んで探検する事だったり。例えどんな都会のど真ん中にいたとしても、子供達にとってその場所は洞窟であり、ジャングルだ。ありとあらゆる場所を冒険の世界に変えて、そして余りにも無邪気に楽しむ。 この給水塔も例外じゃなかった。 いつからか村の子供はこの給水塔の頑丈さと高さに目をつけて、ジャングルジムの要領で遊ぶようになった。でも、この給水塔は何人もの子供で遊ぶには小さすぎて、誰が登るのか揉めていると最後には必ずケンカになった。つまり、強い者だけがここに登れる、という図式が自然とできてきていた。 そして、いつからかここは僕の指定席になっていた。 僕は、誰にも負けたことがない。 この席を争うケンカが始まると僕はすぐに向かっていって、そこにいる全員をボコボコにしてやる。何人でかかってこようと、誰も僕には敵わなかった。 この村の子供なんて、皆、ただのガキだ。 本当に子供臭くて、一緒にいられない。 右手に持っていたリンゴをかしりと、一口齧る。心地よい甘酸っぱい水分が、口一杯に広がった。 この給水塔の指定席は、僕にとってはいろいろな意味で都合のいいものだった。 第一に、ここなら必ず1人になれる。 うるさい馬鹿達に関わる事もなく、静かに静かに時間が過ぎていく。 第二に、ここは、高い。 何で高いのがいいのかというと…それは、いろいろ。 何でかわからないけれど、高い方がいい。どこよりも。何よりも。 第三に、ここは眺めがいい。これはもう、絶対。 程度の低いあいつらを見下ろすのは、格別に気分がいい。それだけで一日上機嫌でいられる。 そして──夕焼けが、好きだった。 ここから見る、村の裏にある、灰色の切り立った山々に溶け込んでいくように消えていく夕陽が、とてもきれいだった。僕は夕方、陽が落ちる時間になると必ずここにやってきては、こうして夕陽を眺めていた。 終わっていく太陽の時間。 終わっていく一日。 僕は、何か終わる事を望んでいるんだろうか。 もしそうだとしたら、一体何が終わる事を望んでいるんだろうか。 考え始めると、頭の中がグチャグチャになって、溜め息が出てしまう。──やめよう。 僕はポケットからあるものを取り出し、掌の中に音もなく在るそれを、じっと眺めた。 びっくりするくらいに澄み切った、無色透明の石。僕の、唯一の宝物。 少し前に、危険だから近づくな、と大人から散々言われているのを聞かずに、裏の山に1人でぶらぶらと散歩に行った時に見つけたものだった。土地が枯れ、死んでしまったこの山に四季を感じる事なんてとてもできなくて、モノクロの景色がひたすら広がるだけのこの山の中で、この石はひっそりと、でも、確かに強い輝きを放ちながら、灰色の道に落ちていた。まるで、僕に拾って欲しいとでも言うかのように。僕はそれを迷わず拾って、ズボンのポケットに突っ込んだ。それからは、これは僕のもの。 結晶のように透明で美しい不思議なその石を、夕陽にかざしてみる。石の中で、差し込んでくる夕陽の光がきらきらと輝いていた。キャンドルの炎のように。 僕は、こうして石の中で頼りなげに、でも、優しくゆらめく太陽を見るのが何よりも好きだった。
何よりも、好きだったんだ。
〜夕空の山の向こうに〜
「───。」
僕の名を呼ぶ声が聞こえた。下の方を見やってみると、喪服用の黒い、簡素な服を着た母さんが立っていた。いつもはポニーテールに結わっている柔らかい髪も今日はストレートに下ろしてしまっていて、普段の明るいイメージよりも、ずっと大人びていて、きれいだ。──何?僕はそうそっけなく返すと、母さんは珍しく眉に皺を寄せて、 「何って、あんたまだお葬式に顔だしてないでしょう。 あの子の家のお母さんにはあれだけお世話になってたのに…」 あれだけ? あれだけって、どれだけ世話になったんだ? 僕がお世話になったわけじゃない。母さんが世話になったんだろ。 「…すぐ、行くよ」 僕は相変わらず太陽に石をかざしたままの姿勢で、小声でそうぼそりと呟いた。石の中では、太陽が音もなく揺らめいていた。母さんは呆れ顔で肩をすくめて、 「まったく、ひねくれてんだから…。いい?ちゃんと顔出すんだよ?」 それだけ言い残すと、多分、葬式の手伝いだろう。足早に僕の隣の家に入っていった。家の前では黒い服を着た、いくらかの人間が、わずかに寂しげな表情を浮かべながら、ぽつり、ぽつりと話していた。 いつもならこの夕暮れの時間はどこも夕食の準備にとりかかっていて、村の広場はしんとした静けさに包まれるのに、今日はいつまでたっても声が止まない。僕はちっ、と小さく舌打ちをすると、石をかざすのを止めた。どうせもう、陽もあの地獄のような山々に沈みきってしまう頃だった。 太陽は目に見えるスピードで針のような山に吸い込まれていく。同時に、空の色もオレンジ、燃えるような赤、そしてインディゴへと、色鮮やかなグラデーションを展開させていく。 やがて世界は闇に包まれ、太陽の時間が終わってゆく。 夜が、始まる。
僕はその後家に戻り、適当に夕食になりそうなものを物色していた。母さんは最後まで葬式の手伝いをするようだったので、その夜は一向に帰ってこなかった。今頃は大勢の人達相手に、料理の出来ないあの家のおっさんの変わりに精一杯に手料理を振る舞っているはずだった。 フライパンに卵を落として、目玉焼きを作る。じゅわあっ、と気持ちのいい音が台所に響いた。半熟が好きな僕は、適当に色が変わってきた頃に早めに目玉焼きを取り出して、食パンに乗せる。家の果物入れに何故か常備されているリンゴを見る。赤い宝石のように力強くそこに在るリンゴを一つ選び、パンツとズボンの隙間に押し入れると、それが腰の部分から落ちないかどうか確認する。───OK。 僕は、リンゴと目玉焼きを乗せたパンを持つと、改めて外へ出た。夕焼けの匂いなどもう既にどこにも存在してはおらず、外はすっかり暗闇に落ち、空には幾百万の星々が瞬いていた。 そっと、目線だけを隣の家に送る。 玄関口には、既に誰もいなかった。大分人も減ってきたのか、それとも中で食事をとっているのか。───どうでもいいことだったけれど。 僕はそのまま片手で器用に給水塔に登る。天辺に辿り着くと、そこはもう天然のプラネタリウムと化していた。満足げにふっ、と慣れない、少しばかりの笑みを浮かべると、僕はそう広いとは言えない給水塔の縁に腰掛けて、先程作った目玉焼きとパンを頬張る。先に目玉焼きを口の中一杯に含んでから、パンを食べる。こうすると、格別に美味しい。それをあっという間に平らげてお腹を落ち着かせたら、今度はゆっくりと、リンゴを齧る。思えば、ここでリンゴを食べる事、夕陽を見る事は僕の日課になっていた。 かしり。 齧るたびに、リンゴは小気味のいい音をたてる。 かしり。 ───あれだけお世話になっていたんだから。 ───かしり。 母さんの言葉が蘇った。 「あれだけって…本当、どれだけなんだよ…」 僕があそこの家のおばさんに「お世話」になったのは、僕が記憶している限りでは、ただの一度限りだ。あまりいい「一度」ではないのは、確かだった。
───かしり。
週末、あそこの家のおばさんは子供向けのお菓子作りの教室を開いていた。 と言っても、教室というのは実は名ばかりで、そこに押し寄せる子供達のほとんどはクッキーやケーキをただ食いできるから、という理由で来ているのを、僕は知っていた。それと、もう一つ。 あそこに住む、「あの子」が、目当てなのだ。 あの子は利発的で活発で、笑顔がとても眩しかった。村の中の小さな学校の中でも、他の場所でも、あの子の周りには常に誰かがいて、そしてそこには必ず笑顔があった。村の誰もが、あの子のことを好きだった。特に子供達の間では、一種アイドルのような存在だったかもしれない。子供の誰もが、あの子に好かれたがっていた。そのために、その教室に通っていた、ませた男の子も少なくはない。そのことを、あのおばさんが知っていたかどうかは定かではない。とにかく──人のいい性格の人だったから。
「君も、どうかな?お料理教室」
母さんの買い物に付き合って村で唯一の雑貨屋に入った時に、偶然居合わせたあの子のおばさんが唐突に声をかけてきた。「──は?」僕はなるべく関わるまいとして、出来るだけ冷たく、そっけなく聞こえるように答えた。 「何だよ、それ。悪いけど、俺ガキじゃないんだよね。やんないよ。普通」 「でも、近所の子も皆来てるし。男の子だってね、たくさんいるのよ。お友達もできるんじゃないかな〜。…ね、どうかな?」 おばさんは、相変わらずの笑顔をたたえたまま、そこに立っていた。優しい、非の付け所のない笑み。 ──なるほど。つまり、この人は僕に「トモダチ」を作らせたいわけだ。いわゆる、大人の優しさ、みたいな。 ──余計なお世話です。 僕はもうこれ以上は付き合っていられない、というように舌打ちをしてみせると、そのまま立ち去ろうとする。が、そこに母さんがやってきて、「ちょっと、勝手に帰んないでよ、荷物重いんだからさ〜」と頬を膨らませた。そして、僕の隣に立っているおばさんを見つけて、「あら〜!」とやたら高い声を上げて… …その後は想像した通り。おばさん同士の井戸端会議が始まってしまったのだ。 思わず、僕は溜め息をついた。できる事なら、さっさと帰ってしまいたかった。母親と二人で買い物に来ているなんてことを同世代の子に知られたら恥ずかしかったし、それに、このおばさんは、僕は苦手だった。この人は、あまりにも優しすぎる。 優しすぎる人間は、好きになれなかった。 井戸端会議にて取り決められた決議は、極めて単純でわかりやすいものだった。 つまり…「あんたもお料理教室に行ってらっしゃい」…だそうだ。
当日、僕は教室が開かれているあの子の家の前に立ち尽くしたまま、溜め息をついていた。ドア一枚を隔てた壁の向こう側では、何人もの子供達がばかに大きな声を上げながら、どたばたと調理している音が聞こえてきた。その、妙に甲高い声を聞いているだけで、何となく居心地の悪さと必要性のない苛立ちを覚える。 正直、気が進まなかった。できることなら今すぐに帰りたかった。だけど、母さんの顔を思い浮かべると、帰るのも拒まれた。僕は何故か、母さんにだけは弱いのだ。ドアノブを掴もうとする手を出しては引っ込め、出しては、引っ込め。それを何度か繰り返す。僕はもう片方の手で、ポケットの中にいつも突っ込んでいる、あの透明な石を力いっぱい握り締めていた。 悩んでいる時、考えている時にこの石をぎゅっ、と握り締めてしまうのは、僕のクセだ。どんなにどんなに力を入れても、決して変形することも壊れる事もない、この石。僕にとって唯一の、裏切らない存在。 そうして悩んでいると、不意にドアの横に取り付けてある窓に、動くものを見た気がした。視線を移してみると、もう既に誰もいなかった。───何だ?と思っていると、がちゃりという音を立てて、唐突にドアが開く。 「あ」 驚いてしまい、僕は短い声を上げてしまう。そこにいたのは、デニム生地のエプロンを着た、あのおばさんだった。僕を見かけると、おばさんはぱっ、とハイビスカスのような華やかで、でも華美すぎない感じのいい笑みを浮かべると、 「来てくれたんだ。ありがとう」 と語りかけてくる。僕は、バツが悪そうに頷くしかない。そんな僕の様子に気づいているのかいないのか──いや、あのおばさんは気づいていた。その上で、何でもないフリをしていた。そういう人だった──おばさんは、にこにこと優しげな笑みを浮かべたまま、続ける。 「どうぞ、入って。まだ始まったばっかりだから、全然間に合うわ。 お料理作るの、初めてだよね?大丈夫、丁寧に教えてあげるから」 ──僕だって、目玉焼きぐらいはしょっちゅう作ってる。そう抗議する前に、おばさんは僕の手を取って、中に入ろうとした。が、ドアに入る寸前のところで僕が後ろに体重をかける。それががくり、という抵抗を生んだ。おばさんは、一瞬、ちょっとだけ驚いたような表情を浮かべたけれど、すぐにあの感じのいい笑みを取り戻し、 「どうしたの?」 と言う。それはこっちの気を伺うとか、よいしょするとか、そういう気持ちの裏側のない、本当に素直な「どうしたの?」だった。よくある、大人のポーカーフェイスというものをこの人は全くやらない。ただの優しさだけで、こういう言葉を言える人なのだ。 ──それが、苦手だった。 「…やっぱ、いいよ。俺、料理とか興味ないし。 習ったって、きっと二度とやんないし…それに…」 次の言葉は、言おうかどうか、迷っていた。 でも、この人の笑顔の前にいると、こんな言葉ですらつい口から零れてしまう。 「…それに…皆、俺のこと嫌ってるし…」 そう言った僕の声は、自分が思っていた以上に心細そうで、何だか自分が哀れな人のように思えた。むしろ、「僕は可哀相なんです」と公言しているようで、それに気づいてしまうと余計に悲しくなって。 おばさんは、柔らかく眼をすっ、と細めると、 「…そんなことない。皆、君と話した事がないから、接し方が分からないだけ」 おばさんの声は、とても、優しい。 ドアの中からは、子供達の楽しそうな声が聞こえてくる。 「きっと、きっとすぐに仲良くなれるから。ね?」 そう言っておばさんは、僕の手に両の掌をそっと重ねて繰り返した。 ───この人は、母さんと同じだ。逆らえない。優しくて、逆らえない。 僕は頷く事も、「うん」と言うこともできなかった。ただそこに、立ち尽くしていた。おばさんはゆっくりと、ドアの中へ連れて行こうとした。そっとそっと、ゆっくりと。今度は、僕も抵抗せずに入っていく。 中では、6人ほどの男の子と女の子、そしてこの家の主であろうおじさんと、あの子が楽しそうに調理していた。バニラエッセンスの甘く、まとわりつくような香りが部屋の中に満ちていた。どうやら、ケーキを作っているようだった。甘いのは、バニラエッセンスの香りだけではなかった。この楽しげな空気、笑顔の時間、優しげな昼の陽光、小麦粉が宙を舞い、ほんの少しだけ靄がかかったようになった部屋。全てが柔らかく、優しく、温かな素材でできていた。 ───苦手だ。 「ねえ、皆聞いて」 おばさんが、大きな声を上げた。皆の視線が集まる。 「お料理教室に参加したいって子、来てくれたの。 もう途中からになっちゃうんだけど、皆で教えてあげてね」 そう言って、おばさんは陰に隠れていた僕の背を押した。
同時に、笑顔が消えていった。
僕の姿を見た途端、特に男の子の表情が明らかに変わったのがわかった。本当に、わかりやすいくらいに変わっていた。──鼻で笑えてしまうくらいに。 一瞬漂う、気まずい空気。何となく暗くなってしまった場を無理矢理明るくしようと、おじさんは変に高い声を上げて言った。 「あ…ああ、いいんじゃないか? な、皆も、いいよな?な?」 大人に言われると、子供はうん、と言うしかない。だから、その場にいた子供は皆、眉をしかめながら、うん、と誰もが頷いた。誰もが、頷いた。おばさんも、気まずさを何とか取り戻そうとして、僕の背を再び押し出す。今はスポンジを作る作業をしていたらしく、目の前のボウルには半端にかき回されたままのクリーム色の液体が無感情にそこにあった。作業を続けて、というおばさんの声に、子供達は言われたままに作業を続ける。誰もが、笑顔で作業を続けようとしていた。でも、本当は違う。 誰もがわかっていた。どうしたって、どうやったって、ほんの数分前とは同じ空気にならないだろうということは。 僕はおばさんに言いつけられた通り、液体をかき回していた。液体は思っていたよりも重く、想像していた以上の力を要した。がし、がし、がし。かき回す度にゴム製のヘラがボウルにぶつかって、くぐもった音を立てる。 周りの人々の談笑が、BGMのように流れていた。 ここにいても、僕は、ここにいない。 甘いバニラエッセンスの香り。 がし、がし、がし。 液体をかき回す手に、力が篭もった。 早く、早く終わらせよう。早く終わらせて、さっさと帰ってしまおう。この居心地の悪い世界には、永くはいられない。 でも、かき回せばかき回すほど、苛立ちはつのるばかりだった。どんなにどんなにどんなにどんなにかき混ぜても、傍目には変化が現れない。 がし、がし、がし。 がし、がし、がし。 がし、がし、がし。 一心不乱にかき混ぜる僕の姿は、皆の目にはどう映っただろう。そう思った瞬間、その答えを示す言葉が、談笑のBGMの間をぬって、僕の耳に届いた。
「──あいつがケーキ作りだってよ── なんか笑っちゃうよな」
──────がし。
談笑のBGMの中から、確かに聞こえた一文。含んだ笑い声。僕は、ボウルから手を離し、その言葉を放った張本人の元へ足早に向かう。 「おい」 強引にこちらを振り向かせて、胸倉を思い切り掴み上げて、僕は低い声をあげた。場が一瞬にして、しんと静まり返る。それだけで彼は凍りついてしまっていた。眼を見開いて、口をきゅっ、と閉ざしたまま、何もできないでいる。 「お前今、何て言った?」 問いただしても、彼はただ僕を見つめたまま、首を横に振りつづけているだけだった。今にも泣き出しそうな眼。弱く、脆い存在。一人では何もできない存在。影でああして人の文句を言う事しかできない存在。 ───ガキ。 僕は殴ろうとも思えずに、このちっぽけな子供を放す。彼は立つ事も出来なくなってしまったようで、そのままへなへなと床に座り込んでしまった。周りを見ると、誰もが口を噤んだまま、動けないでいた。ただ、おばさんの瞳だけは、違っていた。 悲しそうな瞳だった。他の、畏怖の念を抱いている瞳とは違った、悲しそうな瞳。何故、どうして。そんな言葉が聞こえてきそうな目だった。仕方がないだろ。僕とこいつらを仲良くさせようだなんて考えたあんたが悪いんだ。僕はふん、と鼻を鳴らせると、その場から立ち去ろうとする。すると、おばさんはすぐに僕の後を追いかけて、 「ちょっと待って」 と、僕の腕を掴む。その瞬間、僕の心に烈火のような炎が点いた。 「うっぜえんだよっ!」 乱暴に腕を振り払う。その際に、僕の左手の甲が、おばさんの左頬に強く当たった。鈍い手応え。あ。と、思ってしまう自分。でも、おばさんは相変わらずの優しげで、悲しそうで、でも、強い意志を込めたままの瞳で、僕を見つめていた。殴られた頬を気遣う事もせずに。 僕は、ぎっ、と音が鳴るくらいに歯を噛み締めた。 ───そういうところが、苛立たせるんだ。 そういうところが、嫌いなんだよ。 ───っ! 僕はその場にあった小麦粉の袋の中に手を突っ込んで一握り、小麦粉を手に取ると、それをおばさんに向かって思い切り投げつけた。わあっ、と、子供達が小さな悲鳴を上げた。白い煙の中で、おばさんの表情が苦悶に歪む。同時に、おじさんが「貴様、何するんだ!!」と怒号を発した。 「るせーよ、おっさん!」 それから、僕の中ではこのおじさんは、おっさんだ。僕はその場から逃げるように家を飛び出した。走って、走って、とにかく走って。気がついたら、裏の山の麓まで来ていた。気づけば外は夕焼けに包まれていて、まるで世界が赤く燃えているようだった。
甘いバニラエッセンスの香りは、 まだ体にこびりついたままだった。
───かしり。
僕は再びリンゴに齧りつく。最後の一口だ。芯のみになってしまったリンゴを、僕は持て余している。持て余すのはリンゴの芯だけじゃない。僕は、全てを持て余している。時間も、人も、自分自身でさえも。──そろそろ、帰ろうかな。そう思った時、あの子の家の二階の窓に、人影が映った。 あの子だ。 あの子は、先日までとは別人のようだった。眼に光がなくて、泣きはらしたのか、目の周りも腫れぼったい。髪の毛もぼさぼさになってしまっていて、一瞬、本当にあの子なのかと疑ってしまったほどだった。あの子の視線の先には、山があった。灰色の、針のような山々。夜の月明かりの中で不気味にぬらりと輝く山々を、呆然と、生気のない瞳で見つめていた。そんなあの子の姿はまるで幽霊みたいで、ぞっとしないものがあった──。
次の日の夕方。 僕は相変わらず、給水塔の上にいた。僕はまた、透明な石を太陽にかざしていた。こうして見る夕陽が、一番きれいだ。石の中では夕陽はキャンドルのように揺らめいている。そして、次に僕は、もう一つのものに あの子だ。 あの子はあの日以来、ずっとあの窓辺に立ち尽くしたまま、山の方を眺めていた。朝も、昼も、夜も、ずっと。時間を問わずに、常に同じ姿勢で窓辺に立っているあの子は、本当に幽霊のようだった。たまに、あのおっさんに連れられて中に入っていきはするけれど、でも気がつけばもう窓辺に立っていて、山の方を眺めていた。 僕も、あの子を眺めていた。 それは、気づけば何日も続いていた。 何日も何日も何日も。 あの子はずっと山の方を眺め、僕は、あの子を眺めつづける。 朝も昼も夜も、ずっと、ずっと、ずっと。 それは、ある意味で不思議な光景だったと思う。僕自身もそう思っていた。でも、どうしてもやめられなかった。見つめつづける。ただ、それだけを繰り返していた。 いつからか、この石をかざす対象は夕陽から、あの子に変わっていた。 もちろん、太陽にかざした時のようにあの子がこの石の中できらきらと輝くわけではない。でも、それでも、この石を通せば何かが見えるような気がして。何かがわかるような気がして。僕は愚鈍にも、いつまでもいつまでもあの子に石をかざし続けていた。 夕陽にかざし、あの子にかざして。 繰り返し、繰り返し、続けていた。 あの子のおばさんが、亡くなった。 それは、一つの変化だった。 あの子にしろ、おっさんにしろ、うちの母さんにしろ、ガキくさいあいつらにしろ、村の人々にしろ。おばさんが亡くなった。そのことで、皆の中にそれぞれの変化が訪れようとしていた。そして、その変化をただ、見つめる僕。 ──僕は?僕の中にも、変化はあったのだろうか。 それを思うと、不意に胸が石のように重たくなるのを感じる。──確かに、変わったかもしれなかった。何故、どうして、おばさんの死がきっかけでこんな気持ちになるのかはわからなかったけれど、でも、どうしても、僕はあの子のことを見ていたかった。あの子を、見守りたかった。 石を握る手に、力がこもる。 石の中のあの子と、キャンドルのような太陽。 それを何度も何度も見比べて、僕は考えていてた。 あの頃──おばさんが生きていた頃──のあの子は、あの夕陽のようにきれいで、明るい存在だった。あの子がいるだけで、周囲に光が満ちていた。輝いていた。あの子は、太陽みたいだった。 でも、その輝きが今、失われてしまっている。 こうして石をかざしてみても、その光は石に映らないままだ。 そうしているうちに、僕の中ではある考えが浮かんでいた。 あの子に笑って欲しい。 あの子の輝きを取り戻したい。 もしも、もしもあの子がキャンドルで、今まで灯していた炎がおばさんの死をきっかけにして消えてしまっていたのなら。 僕が、そのキャンドルに赤い火を灯そう。 そして、あの輝きをまた、振りまいて欲しい。 そう、願うようになっていた。
あれから何日か経った頃。 あの子が、あの日以来、初めて家から出た。裏の山の方へと向かっていったのだ。水色の洋服に、おそろいの色のサンダルを履いて。僕は慌てて、あの子の後を追った。 あの子はゆっくりと、でも、迷うことなく、山の方に一歩、一歩と歩を進めていく。村はずれにある無人の古い屋敷を超えたあたりから、あの緩慢な空気が停滞しているような、村ののどかな雰囲気はどんどん薄れていく。木が一本も生えることのないあの山の、独特なひんやりとした空気が徐々に徐々に、足元の方へ流れ出てくるのを感じていた。連れの3人の男の子たちはその空気に気圧され始めたのか、だんだんと歩くスピードが落ちてゆく。が、あの子だけを先に行かせるわけにもいかずに、距離が離れると慌てて駆け足で追いつこうとする。だいぶ脅えてのか、僕が尾けていることにもまるで気づいていないようだった。それを何度か繰り返した頃かには、僕たちは既に山の麓にまでたどり着いてしまっていた。 巨大な針のような山の様相は、深い深い地底の底にあるであろう地獄を思わせた。よう でも、それでもあの子は歩むことを止めなかった。 迷わずに、ゆっくりと確実に歩を進めていく。ごつごつと整地されていない、荒い山の路面はあの水色のサンダルでは、どうにも歩きづらそうだった。それでもあの子は、ずっと、ずっと先の方を見つめたまま歩いていく。 その様子は、相変わらず幽霊みたいで、見ていると背筋がすっ、と冷たくなるような感覚に陥ってしまうようだった。 ───でも、目が離せなかった。 男の子の一人があの子のそんな様子と、冷徹な景観の山々を見て、後ずさりをする。一瞬の間を置いて、男の子は僕がいる方へとおぼつかない足取りで走ってきた。村へ戻るつもりなのだ。・・・あの子を置いて。 すれ違い様、男の子と僕の目が合う。料理教室の日、僕が胸倉を掴んだ子だった。男の子の瞳は水面のように潤んでいて、今にも大粒の涙が零れてきそうだった。男の子は一瞬だけ僕を見ると、その脅えた表情を一層強めて、そのまま何かを振り切るように走り去っていった。 弱虫め。 でも、あの子を置き去りにして帰ったのは、その男の子だけではなかった。あの子が歩を進めていくたびに、また一人、帰っていく。そしてまた、すれ違い様に僕と視線が合う。僕は、ポケットの中にある石を、強く握った。 あの男の子たちの瞳には、僕はどんな風に映ったんだろう。 僕は、どんな眼をしていたんだろう。 それを思うと、何故だか心臓の辺りに氷の塊ができたかのような、ぞっとするような気持ちに襲われる。それはあまり心地のいいものではなかった。 山に入ってから、数時間が経った。あの子は息を切らせながら、でも、前へ進むスピードは決して緩めることなく、一歩一歩、しっかりと歩を進めていく。連れの男の子はもう体力の限界らしく、あの子に向かって「もう、帰ろうよ〜」と、半ば泣きそうな声を上げながら訴えた。でも、あの子は後ろを振り返ることなく、 「ダメ。行くの。お母さんに会いに行くの」 と、それだけを呪文のように繰り返しながら、なおも前進していく。そして男の子は、いかにも不安そうな顔で、今にも泣き出しそうな顔で、仕方なくついて行く。 お母さんに会いに行く。 その言葉を聞いて、僕の中で母さんが言っていた、ある言葉を思い出した。人は死んだら、どこへ行くのかな。かつて、僕は母さんにそう聞いたことがあった。母さんはこう言っていたのだ。 死んだら、その人の魂はあの山を越えて、どこか遠いところへ行くのよ。 どこか遠いところ。それは、どこなの?そう聞くと、母さんは微笑んで、とても、とても遠いところなの。と言った。 あの子は、おばさんに会おうとしているんだ。 僕はそれで、ようやく合点がいった。何故あの子があれだけ必死になるのか。どうしてあんなになるまでこの山を越えようとしているのか。それが、やっとわかったんだ。 ───だったら──僕も、あの子と一緒に行こう。 あの村にいたって、僕には何もないから。だったら、あの子と一緒に、どこか知らない、遠い遠いところへ行くのだって、悪くは無いと思えた。そう心に決めると、僕は不思議と歩を進める足にぐんと力がこもるのを感じた。 未知の世界への冒険。僕だったら、きっとやっていける。あの子の面倒だって、僕が見てやる。でも、荷物を持ってこないのは失敗だったな、ほんの少しのお金くらい、持ってくればよかった。そういえば、母さんに何も言わずに出てきてしまっていた。できれば一言くらい、挨拶してくれば良かったかもしれない。もう二度と帰らないってことがわかったら、どんな顔をするだろう。あ、でも、旅先で手紙でも出せば大丈夫か・・・。 僕は不謹慎にも、これからやってくるであろう冒険の旅に、わくわくしてしまっていた。そして、割とリアルに今後のことまで考えてしまっている。 ただ、あの給水塔に二度と登れないのかと思うと、ほんの少しだけ切なくなってきた。
ようやく、山の中腹にまでやってきた。それまでは灰色の洞窟を抜けてくるような息苦しい道のりが続いていたけれど、いっぺんに視界が開ける。この先は深い崖に隔たれていて、いつ、誰が吊るしたのかわからないようなカビ臭い、古いつり橋を渡らなければならなかった。山は薄い霧に包まれていて、谷底は白くぼやけてて、よく見えなかった。僕もこのつり橋を渡ったことはなくて、そのあまりの高さに少し、身震いを覚えてしまっていた。あの子はすっかり上がってしまった息をほんの少しだけ整えると、きゅっ、と歯を食いしばるようにしながら、迷わずにつり橋へと歩を進めた。 ──マジかよ。 それは僕が発した言葉だろうか、それとも、連れの男の子の言葉だっただろうか。いつ落ちるとも限らないようなつり橋に、あの子は何のためらいもなく、踏み出していった。 ぎしり。──ぎし、ぎしり。 一歩、一歩進むそのたびに、つり橋はいかにも不安げな音を立てて、大きく揺れていた。男の子は、今度こそもうついていけないと思ったのか、踵を返すと、一目散に村の方へと駆けていった。そして、すれ違い様にまた見る、あの怯えた眼。見つめ返す僕の眼。 それは、また僕に不快な思いをもたらせる。苛立ちか、焦りか。僕はちっ、と、大きく舌を鳴らせた。 でも、次々に帰っていく男の子たちに気づいているのかいないのか、それに全く構わずに、あの子はどんどん前へと進んでいく。僕も急いで、後を追おうとする。
──そして、僕は見たんだ。
今まで見てきたものよりも格段に美しい、夕焼け。 はっ、と息を呑む。 全てが赤く染め上げられていて、まるで古く、歴史の深い宗教画のようなあまりにも非現実的できれいすぎるその光景は、僕の心をほんの一瞬でも奪う事など、造作もないことだった。僕は、その夕陽に吸い込まれそうになるのをぐっとこらえながら、360度のパノラマに燃え広がった陽の輝きを見つめていた。 「…すごい」 僕は、思わずそう呟いていた。ポケットの中から石を取り出し、夕陽にかざそうとした、その時。 ぷつっ。 何か、聞こえた。短く、軽い音。何かと思って辺りを見回しても、特に音を立てるようなものは見当たらなかった。変だな。そう思って、耳をすませてみると──。 ──ぷっ。ぷちっ、ぷつっ。 ───今度は、確かに聞こえた。何だ、何の音だ?僕はその音の原因になっているものを見つけようとして、周囲を注意深く見渡すと同時に、先程よりもさらにさらに音を聞き取ろうと、集中した。 ぷち…ぷち、ぷっぷつっ。 …何処から音が立っているのかが、わかった。 とたんに、すうっ、と体の熱が下がっていく。 僕は急いで橋に駆け寄って、あの子の背中に向かって叫んだ。 「ちょっ…おい、待て!」 だが、あの子は止まろうとはしなかった。そのまま無用心な足取りのままで、規則的に足を動かし、どんどん前の方へと進んでいく。あの子が一歩、一歩足を前へ繰り出して行くたびに、橋はぎしぎしと音を立てて揺れ、ロープのどれかが、どんどん解れていく。 「…っ、待てっつってんじゃんかよっオイっ!」 この橋はひどく老朽化していて、本当にいつ落ちてもおかしくはない状態だった。これ以上進むと、本当に危ない。でも、あの子にはどうやら「山の向こう」しか見えていないらしく、僕の制止の声などまるで無視したまま、先へ先へと進んでいく。 ───っ! 僕は一際大きく舌打する。その途端───。
──ぶちっ!
やたらと乾いた音を立てて、あの子の足元の板を吊り下げるロープの片割れが千切れた。 「───!」 あの子はそのままこの星の引力に逆らう事なく、落下して───。 ───いや、何とか両の手を折れてない板にひっかけて、難を逃れた。でも、掴んだ板は必要以上の衝撃を与えられたせいもあって、ぎしぎしと嫌な音を立てる。あの子が何とか這い上がろうとすると、その途端に板に小さく、小さくヒビが入っていって、ほんの一秒毎に弱くなっていくのがわかっていた。 「いいから、動くなって!今何とかするから!」 そこで、初めてあの子は僕の存在に気づいたのだろうか。ようやく視線をこちらの方へ向けるようにして、こくり、と頷くのが見えた。僕はそれを確認すると、とりあえず、つり橋の上に一歩、足を踏み出してみる。ぎしり…と、嫌な音がなった。今度は、体重を強くかけてみて、足元が落下することがないか、確認する。──本当は確認したって、意味がないのはわかっていた。現にあの子の足元の板はすっかり壊れてしまっているのだから、何をしたって安全だと言い張れる根拠は、何もなかったんだ。でも、それでも、僕はほんの少しだけ安心すると、一歩、一歩と慎重に歩き、あの子に近づいていく。ここで下手に慌てて近づいて足元が壊れるなんてことになるのはごめんだったし、僕が走ることで橋が揺れ、あの子の握力を消耗することも考えられた。急いで駆け寄りたい気持ちを必死に抑えながら、僕は徐々に、徐々にあの子に近づいていく。 世界が火事に見舞われてしまったかのような夕焼けの中。 強い強い高地の強風が吹き付ける橋の上。 僕は一歩、一歩、歩を進めていく。 どうにか側までやってくると、あの子は既に震えていて、不定期なリズムで呼吸を繰り返していた。顔は真っ青に染まりきり、大して寒くもないというのに、歯をカチカチ鳴らせている。ひどく混乱しているようにも見えた。 「平気、大丈夫だから。今、何とかするから」 僕はそう言って、橋に寝そべるようにして板への抵抗を少なくし、あの子に向かって手を伸ばす。だが、あの子は震えてたまま不器用に首を振り、一向に手を掴もうとする様子がなかった。僕は再度、 「ほら、掴んで。引き揚げるから」 と煽るけれど、あの子は小さく、短い声で 「…無理っ…」 と呟くので精一杯だった。そうしているうちに、あの子が掴んでいる板はミシミシと音を立てて、徐々に徐々にその亀裂を広げていく。 「───っ、いいから、掴めよ。その板本当にヤバイんだってば!」 僕は焦って少しだけ大きな声を上げる。すると、板はばきり、と一際大きな音を立てて、浅く、くの字に折れ曲がった。あの子は、短い悲鳴を上げる。 ──僕の心臓は、さっきからもう弾け飛んでしまいそうだった。空いている方の手で、石をぎゅっ、と強く強く握る。──大丈夫、大丈夫。僕はこの子を助けられる。絶対に助けられる。だって僕はもう子供じゃないんだから。あんな臆病者の子供達とは違うんだから。一人だって、何だってやっていけるんだから。だからきっと、この子だって救う事ができるはずだ。 でも、その瞬間、先程のすれ違い様に見た、僕を見つめる脅えた瞳達を思い出してしまう。せっかく自分に言い聞かせ、奮い立たせてきたものが、たった、それだけで消えてしまうような感じがした。 「ほら、いいから、とにかくこの手、掴んで。 そしたら後は絶対なんとかするから。絶対、助けて見せるから。 この山の向こう、行くんだろ? 山の向こうに行って、おばさんに会いに行くんだろ?」 あの子は、一瞬だけ、驚いたような表情を浮かべた。何故、そのことを知っているの?その瞳からはそんな疑問符が投げかけられていた。 「ほら。…掴んで」 「………………………………うん…………」 ようやく。ようやく、あの子も首を縦に振った。そろり、そろりと手を伸ばす機会を伺う。僕も、手をぐっと伸ばす。 だけど。
ばきっ!
乾いた音を立てて、とうとう板が折れてしまった。中空に投げ出されるあの子。
全てが、スローモーションのようだった。
僕はあの子を何とか掴もうと、手を必死に伸ばす。 でも、どんなにどんなに伸ばしても、あの子の手には届かなくて。 その拍子に、僕までもが橋から落下してしまう。 それでも、それでも、僕は何とかあの子の手を掴もうとしていた。 あの子を何とか助けなきゃと思っていた。 僕しかいない、僕しかできない。 僕にしか、あの子は助けられない。 石を持つ手に、力がこもる。
絶対に、あの子を助けてみせるんだ。
がっ、と力強く、あの子の腕を掴む。 そして僕は、体中の全ての力を結集させて、あの子をぎゅっ、と抱きしめた。 絶対に、絶対に助けてみせる。
その時。 「!?」
その時──一瞬、ほんの一瞬だったけれど、 握り締めていた石が自ら輝いたような──そんな、気がした。
長いようで、短い一瞬。 永遠を思わせるような緊張の中で、 僕達はそのまま、深い深い谷の底へと落ちていった───。
『───本当は、わかっていたんだ。何も、かも』
「…うっ…」 膝に、焼けるような痛みを覚えて、僕は小さくうめき、そして、瞳を開けた。 左側と右側に、まるで僕たちを覆い尽くすかのようにそびえ立つ岩壁が目に入った。どう見ても、谷底だった。深く立ち込めている霧に今にも沈まんとしている夕陽の光が当たって、真紅の炎の中にいるみたいだった。僕は軽く身を起こし、怪我がないか、確認する。──幸い、膝を擦り剥いただけで済んだみたいだった。あの高さから落ちた事を思えば、奇跡に近い。──奇跡? 僕は、手に握り締めていたままの、あの石を見た。確かに…落ちている最中に、光った気がしたんだけれど…。 周囲の燃えるような夕陽の色を吸い込んで、石はほんのりと、薄紅色に染まっているように見える。 「…そうだ、あの子は…?」
『──全部、全部わかっていたことだったんだ。 でも、それを認めたくないだけだった。 認めてしまったら、僕は駄目になってしまう。そんな風に思ってたんだ』
───!! 息を、呑んだ。 あの子は、僕から少し離れた所に倒れていた。紅のカーテンのような霧に包まれて、静かに静かに寝ている水色の洋服を着たあの子は、まるで童話の中のお姫様のようだった。 ただし。 それは、あの子の頭部の周りにある、赤い水溜りがなければ、の話だった。僕は急いであの子の元へ駆け寄った。 「…おい…大丈夫か…?」 当たり前のことしか言えない自分が、何だか酷く間抜けに思えた。 「なあ…返事、しろって…」 何度か話し掛けても、あの子はまるで反応しない。今度は、その小さな肩に手をかけて、軽く揺すってみながら、語りかける。 「なあ…起きろよ…起きろってば…」 少しずつ、少しずつ揺するのを強くしていく。それでも、あの子は一向に動かなかった。完全に脱力しきっていて、僕が肩を揺するたび、だらしなく手足がぶらぶらと動くだけ。それはまるで、人形のようで。生気のない人に会うのは初めてだった。どうしていいのかわからなくなってしまい、僕は頭の中が段々とパニックに陥っていくのを感じていた。 「起きろよ…起きろ…起きろって…っ!」 揺する力が大きくなり、あの子の体も、がくがくと揺れる。 こんなにされたら、起きるだろ、普通! 「起きろってばっ!!」 そう叫んで、あの子の肩を思い切り手前に引っ張った。あの子の体はその力のベクトルにまるで逆らおうとせずに、そのまま仰向けの状態になる。 そして──僕はまた、息を呑んだ。 あの子の顔は、真っ赤に染まっていた。頭から流れ出る血によって。 もうすでにかなり大きな血だまりができてしまっているというのに、あの子の額からは未だにとめどなく血がしたたり落ちていた。 ───血。 僕だって、子供達とは何度もケンカしていた。その時には口を切ったり、膝を擦り剥いたりして、血を流す事だってあった。血なんか怖くない。いつからか、僕はそう思っていた。 でも──目の前に広がっているこの光景は、そんな僕のちんけな自信をあっけなく打ち砕くだけの説得力があった。 ぐらり。 僕の中で、何かが崩れていく。
『あの時、あの子は息をしていなかった。心臓に耳を当ててみたけれど、何の音もしなかった。どうしよう、どうしようって、とにかく焦ってた。焦って、何をすればいいのかわからなくて、とにかく何とかしなきゃって思って。でも、何をすればいいのかなんて、全然、わからなくて』
「──そ、そうだ、ち血、血、止めなきゃ」 僕は自分のシャツの裾を乱暴に破ると、血が流れ出る原因だと思われるところに、こわごわと当ててみる。でも、僕の白いシャツはほんの一瞬で、真っ赤な色に染まってしまった。生暖かい液体の感触が、この薄布を通して伝わってくる。でもそれは山の中に吹き荒ぶ冷たい高地の風に当てられて、あっという間に冷たくなる。それは、ぞっとするほど気持ちの悪い感触だった。 全然、意味、ない。じゃあ、どうすれば?どうすればいい?考えろ、考えろ! 「…そ、そうだ、今、助け。 うん、助け呼んでくるから、すぐ、戻るから、 ちょ、ちょっと待て…待ってろっ」 僕は思いついたことをとにかく実行してみようと思っていた。自分に半ば言い聞かせるようにしながら、聞いているのかいないのか、まるで反応のないあの子に声をかけて、とりあえずその場を離れた。その姿はまるで、何かから逃げるようにも見えた。 でも、こんなところに降りてきたのは初めてだった。しかも周囲は深い霧に包まれて、どこにどう行けばいいのかまるでわからなかった。確実なのはたった今、落ちてきたばっかりのこの岩壁を登って、村まで助けを呼ぶことだったけれど、ここを登りきるのは今の僕には、とても無理だと思った。 ひゅっ、ひゅっ、ひゅっ。 喉の置くがかあっ、と熱を持って、鼻がつんと痛くなる。顔はいつからか自然とくしゃくしゃになっていて、僕はどうしようもない気持ちのまま、救いようもなく硬く、冷たい岩壁に手を当て、空を仰いだ。 どうしよう。どうしよう。どうすればいいんだろう。 考えろ、考えろ、考えろ。 今までだって一人でどうにかしてきたじゃんか。 今回だって、絶対にどうにかなる。どうにかしてきただろ? 大丈夫、大丈夫。 できるできるできる、僕はできる。 でも、自分に言い聞かせるように長い続けたその言葉達とは裏腹に、実際には僕は何も考えられていなかった。ただただ、途方に暮れていただけだった。 手に持っているあの透明な石を、岩壁に思い切り、何度も何度も叩きつけながら、 考えろ、考えろ、考えろ。 そう繰り返していた。考えろ、考えろ、考えろ。考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ。
──答えは、ない。
「──────〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!! 考えろ!考えろ!考えろ!!考えるんだよっ!!」 僕は怒鳴りつけるように吠えながら、何度も何度も石を壁に叩きつけていた。がっ、がっ、がっ。でも、僕のちっぽけな力だけじゃこの壁のほんの一角も壊す事ができなくて。この石すら、壊す事もできなくて。それが余計に腹立たしくて。全てをメチャクチャにしてしまいたかった。僕は思い切り振りかぶって、渾身の力を込めて、石を握り込んだ拳を振り下ろす。すると、石は汗で濡れた僕の手をするりと抜けて、結果として自分の手を、岩壁に叩きつける形になってしまった。 がっ! 「〜〜〜〜っ!」 言いようもない激痛が、手首を襲った。僕はそのまま、痛めた手首をぎゅっ、と握りしめて、座り込んでしまった。 痛めた手をどんなに握り締めても、どれだけ力を込めて握り締めても、僕は、この痛みを取り払う事ができない。 「っ…!ああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっつ!!!!」 どんなにお腹の底から叫んだとしても、僕は、僕のこの行き場のない怒りを吐き出す事はできない。
できない。 できない。 できない。
───できないことだらけだった。
『そう。僕は、何もできなかった』
僕はしばらくそうして身を震わせた後、おぼつかない足取りで立ち上がり、あの子の元へと戻った。その際に、さっき取りこぼしてしまった、宝物の石を拾う。
『一人で何でもできる。いつでもそう言っていて、そう信じていて。 でも、このとき僕は本当に何もできなかった。 あの子と一緒に山の向こうに行く事も、 あの子が橋から落ちる前に呼び止める事も、 足を踏み外してしまった時に、手を掴んでやる事も、 落下している時に、怪我をしないようにとあの子を守る事も、 今こうして目の前で怪我をしてしまったあの子の手当てをする事も、 誰か助けを呼びに行く事も』
あの子は、さっきと全く同じ姿勢で横たわっていた。 本当に、ほんの数センチも動こうとはしなかった。 時が止まってしまっているかのようだった。 僕は、力なくあの子の横に座った。
『もっと言えば、 あの時、おばさんが死んでしまったあの時、 僕はケーキの作り方を教わる事もできなかった。 謝る事もできなかった。 葬式に顔を出す事もできなかった。 友達を作る事もできなかった。 素直になることもできなかった。 そして──。 一人でいたいと願うのに、一人でいることもできなかった』
あの子の髪を、すっ、と撫ぜてみる。黒くて、サラサラと絹のようだったあの子の髪は、今は血でべっとりと濡れてしまっていて、その数分前の健康そうな髪の面影など、どこにもなかった。僕の指先は、あの子の血で赤く染まっていた。それを眺めていた時、こみあげてくるものを感じた。 「…ふっ…うっ…」
『僕は、本当は常に誰かに構ってもらいたかった。誰かと一緒にいたかった。 だから、村の男の子達があの給水塔の前で笑顔で騒いでいるのを見ていると、僕も混ぜてもらいたくなって、駆け寄っていく。でも、その途端に皆が皆、暗い、嫌そうな顔をする。だから僕は、その子達を殴った。そして、皆の憧れである給水塔を独り占めした。 ここにいれば、誰かが「僕も乗せてよ」と言ってくるかもしれない。 こんな高い所に上っていたら大人の人たちも、「危ないから降りておいで」と心配してくれるかもしれない。 でも、それは全くの逆効果で、結局は誰も何も言ってくれなかった。 子供達も給水塔にいつの間にか飽きてしまって、別の遊び場を探す。 そして僕は、その悔しさを「一人がいいんだ」と誤魔化すことで、自分を慰めていた。 好かれ方が、わからなかったんだ』
「うっ…うっ………… ……うぅっ…〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
『おばさんに教室に誘われた時だって、本当はすごく嬉しかった。 ただ、照れくさかったんだ。優しすぎる人が怖いのは、その人に甘えてしまう自分が怖かったから。おばさんは優しい。とても、優しい。だから、本当は大好きだった。 あの教室の甘い空気。バニラエッセンスみたいに、柔らかくて甘い空気は、とても心地よかった。優しくて、温かくて。でも、本当に、ただ照れくさいだけだったんだ。 あの時、あの子達が言った事なんか、笑って受け流してやればよかったんだ。 それなのに、そんなことで怒った僕をおばさんは引き止めようとしてくれた。 そのおばさんに、とても酷いことをしてしまった。 そのことを、そのことをどうしても謝りたくて。 だから僕は、あの子と一緒に山の向こうに行こうって思えたんだ。 もう一度、もう一度おばさんに会って、謝りたかったんだ』
「あああああああぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜っ! うああああああぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」 涙は、とめどなく溢れてきた。声が、自然と口をついて出てきていた。 こんな泣き方をしたのは本当に自分が小さな頃以来だったから、僕は少し驚いてしまった。でも、僕にはそうすることしかできなかった。 子供が泣くのは、ある種の信号みたいなものなの。 いつか、お母さんがそう言っていたのを覚えている。 子供な僕は、こうすることしか、できなかった。
『そう。子供なのは、僕のほうだったんだ。 あの子が山を越えていくのについて行く事ができずに、あの子の異常なまでの山の向こうへの執着に脅えて帰るのは、僕たちぐらいの年なら当然のことだったんだ。 僕は、僕と同い年の子達が自然にやっていることができない。 友達を作る。 一緒に遊ぶ。 冗談を言って笑いあう。 明日遊ぶ約束をして、ちょっとだけ約束の時間に遅れて皆に責められる。 でも、やっぱり最後には皆で笑いあえる。 怯える事の、何がいけなかったのか。 友達といる事の、何がいけなかったのか。 本当に子供だったのは、誰だったのか。
全部。 全部、わかっていたことだったんだ。 でも、それを認めてしまったら、僕は駄目になってしまうような気がしていた。 認めてはいけない。そうすると、僕は孤独に押しつぶされて、本当に立ち直れなくなってしまうと思っていたんだ』
あの子の血がついたままの手で、僕は宝物の石を握り締めていた。石は血によって赤く染まっていて。
─────────? …今…? 今、確かに…。でも、僕はその時はそれどころではなくて、ただ、ただ声を張り上げて泣きつづけるので、精一杯だった。
夕焼けが照りつける、冷たい霧の炎の中で、 僕はただただ、泣きつづけていた。 泣きつづける事しかできなかった。
───泣いてから、どれくらい経った頃だっただろうか。 夕陽も、まさに地の底へ眠りに入ろうとしているその時に、不意に、声が聞こえた気がした。 僕は依然として泣いたままでいて、しゃくりあげながら、それでも何とか耳を澄ます。そうすると──。 ──聞こえた。確かに、聞こえた。 人の声だ。それも、たくさんの。 やがてそれは段々と近づいてきて…。 「!いた!いたぞーーっ!」 それは、大勢の村の人たちだった。これは後で聞いた話だったのだけれど、あの時脅えて村に戻っていった子供達が、大人の人たちに僕たちのことを告げたのだそうだ。それで、慌てて捜索にやってきた、ということだった。 僕は村の人たちを見ると、安心してしまったあまりに、また泣き出してしまいそうになる。でも、今度は人の眼があるから、と、ぐっと堪えた。 僕たちを見て──いや、あの子の姿を見て、誰もが言葉を失った。普通に暮らしていれば、決して見ることはないであろう血だまり。その上に横たわっているのは、村で一番好かれていた、あの子だったのだから。 たくさんの人を掻き分けて、誰かが前の方へと出てきた。あの、おっさんだった。おっさんは愛娘であるあの子の姿を見ると、途端にその顔色を変えた。血の気を失い、今にも倒れてしまいそうだ。が、そう思っていると、今度は僕のほうへと視線を移し、顔色を真っ赤に染め上げて、もの凄い迫力で近づいてくる。それは、今までのおっさんとは明らかに違っていて、心の底から震え上がるような怒りに満ち満ちているのがひしひしと伝わってきていた。 おっさんは僕に近づくと、僕の頬を迷うことなく、拳固で思い切り殴り飛ばした。今まで感じたことのない衝撃が頭部を襲ってきて、僕はショックで立ち上がれなくなる。脳震盪とかそういうのではなく、ただ単純に、感じたことのない衝撃への驚きのため、立ち上がれなくなっていた。おっさんは目を血走らせながら、わめき散らした。 「お前!!娘になんて事をしてくれるんだ!! お前が娘をこんなところに連れてこなければ…こなければ…ッ!!」 僕を指差す手すら震わせて、おっさんは言葉にならない怒りを、どうにか僕に伝えようとしていた。それは、よく伝わってきていた。おっさんの肩を叩く、村の人。 「おい…大丈夫だ!まだ、生きているぞ!」 あの子の応急手当をしていた村で唯一のドクターが、さも嬉しそうに声を張り上げた。おっさんも驚愕の表情を浮かべながら、あの子の元へと駆けつけていった。 ──生きている? 驚いたのは、村の人だけではなかった。僕も、驚いていたのだ。 さっき、落ちたばかりの時は確かに心臓も止まっていたのに───。 ──あ。 もしかすると…。 そんな僕の疑念を他所に、村の人たちはあの子を担架に乗せ、揺らさないように慎重に、でも、なるべく急ぐようにして、次々と去っていく。僕のことを心配してくれる人は、誰も、いなかった。おっさんは再び、僕のほうへと向き直り、近づいてくる。また拳固が飛んでくるのではないかと思って、思わず身を竦めてしまった。が、その心配とは別に、おっさんは僕の胸倉を掴むと、軽々と僕を持ち上げ、鋭い目でこう言ったのだ。 「もしあの子が死んだら、ただじゃおかないからな…!」 この時の僕の眼は、きっとあの時の、あの男の子と同じ眼をしているはずだった。 脅えきって、逆らう事などまるで考えていない、子供の目。
おっさんは手を乱暴に離すと、さっさと愛娘の元へ行ってしまった。
そして、また残されたのは、僕一人。 夕陽は、最後の輝きを放っていた。 僕はそのまま仰向けになるように寝転がり、空を仰いだ。 空は、赤かった。 燃えるようなレッド。 どこまでも、どこまでもちっぽけな自分を、強く感じた。 あの馬鹿にしていたおっさんにさえ、勝つ事が出来ない、ちっぽけな自分。 何にも、誰にも勝つ事ができない、弱い自分。
僕は、この村で一番弱いんだ。
そのことを、強く、強く感じた。
強く。 強くなりたい。 ケンカとか、そういうんじゃなくて。 もっと、もっと広い意味で、いろんな意味で、強くなりたい。 そう、心の底から思えた。
───誰よりも、強く。 強く、なるんだ。
「…ここまで聞いてくれて、ありがとな」
夕陽の中。あの想い出の橋の前。 僕は、今度は一人でここを訪れていた。 僕は崖のギリギリの所に座り、あの宝物の無色透明な石を夕陽にかざして、その中でキャンドルのように揺らめく太陽を眺めていた。こうしていると、この石がまるで生き物のように思えてくるのだ。何故だか、そんな不思議な温かさがある石だった。 僕は、時々こうして石に話し掛けていた。 周りの人が見たら、変に思うかもしれない。でも、僕には確信に近い思いで、この石が、「聞いている」ということがわかっていた。 だから、何の躊躇もなく、僕はこうしてこの石に向かって語りかける事ができるんだ。 「あのさ、俺、明日この村、出てくつもりなんだ。 ずっと南の町に行って、一旗揚げるつもり。 で、あの子にも今日、話すつもりだったんだけど… その前に、気持ちの整理、つけたいと思って」
そう、あの子は、生きていたのだ。あれから何日も意識は取り戻せなかったけれど、奇跡的に助かった。あんな高い所から頭から落ちて、絶対に助かるわけがないのに。そう、ドクターも言っていた。 僕が膝を擦り剥いただけで済んだのも、奇跡に近い出来事だ。 よくよく思い返してみると、この石、自分で光っていた時があったような気がする。それは確か、僕とあの子が谷底へ落ちてしまった時と、亡骸になってしまった(と思われた)あの子の側で僕が泣いている時の、2回。もしかして…。 「…あれさ、もしかして…お前がやったの?」 などと、馬鹿なことを聞いてみる。 石は、押し黙ったように、輝いていた。夕陽に照らされて、薄紅色に。 僕はそれを見て、思わず吹きだしてしまった。 「ま、いいや」
この村で見る夕陽も、この山も、村そのものも。 ──最後なんだ。
「全部────全部、話した。 何だか、すっきりした」
好きだった。 この石を通して、夕陽を眺めるのが。 この石の中で頼りなげに、キャンドルの明かりのように揺らめく太陽が、何よりもきれいに思えて。何よりも、大好きだったんだ。
「───さよなら。」
石を、夕陽に向かって思いきり、放り投げる。 石は夕陽の輝きを吸い込みながら、きらきらとした軌跡を描いて飛んでいく。 どこまでもどこまでも。 遠くへ、遠くへ。 夕空の山の向こうにまで、飛んでいく。
──僕は強くなる。 絶対に、強くなる。 いつか、本当に強くなれたその時に、 またこの村を訪れよう。
それまでは、しばしのお別れ。
石は太陽に重なると、その瞬間に強烈な赤の輝きを放ったように見えた。
そして───風に、溶けて消えていった───。
エピソード1 FIN.
夕陽以上に赤く力強い、炎の色。 勇気の色。 決意の色。 少年の宝物だった石は、 長い長い時間を経て、 少年のキャンドルに、灯を灯す。
緋色の少年の勇気を乗せた石は風に流され、時に泳ぐ。 時や場所を選ばずに、石は気まぐれに旅を続ける。
石は赤の色を得て、そしてまた、次の物語へと────。
NEXT エピソード2
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