「……え……?」
一瞬。ティーダが何を言っているのか、わからなかった。
──今、なんて……。
「誰よりも! 何よりも! ユウナのこと、一番好きなんだ!!
世界中の誰が、誰のことをどんっだけ想っているよりも!
世界中の誰が、何のことをどれっだけ想うよりも!
もっともっと、強い気持ちで! ユウナのこと、想ってる!!」
──心が、震える。
それは、本当なの? 本当の気持ちなの?
嘘じゃないの? 信じてもいいの?
それに合わせて体もブルブルと震え出し、それまで張り詰めていたものが嘘のように吹き飛んでいく。それまで強張っていたユウナの表情もすっかりと破顔してしまい、顔をくしゃくしゃにしたユウナは、笑っていいのか怒っていいのかも、わからない。ただ──たまらなく、なってしまった。
──もう───もう! もう!!
ユウナはすっと立ち上がりティーダと同じように波音に負けないくらいの大きな声で、それに応える。
「……本当にー!?」
「いろいろ、フラフラしてたけど!
ユウナのこと、いっぱいいっぱい悩ませたりしたけど!
でもやっぱ、俺ユウナじゃないとダメなんだ!!」
一歩、ユウナはティーダに向かって歩を進める。
「……私、ルールーみたく料理、うまくないよー!」
「俺にとっては、ユウナが作る飯が一っ番美味いから、それでいい!!」
また一歩、歩みを進める。
二人のその様子を、世界を金色に濡らす月が見つめている。
「もしかしたらこれから、私よりもかわいくって、
素敵な子と会えるかもしれないのに!」
「それ、ぜぇぇ〜〜〜〜ったい、ないッス!!」
月明かりに浮かぶ、彼の笑顔。またユウナは歩を進める。
十メートルから九メートル。
九メートルから八メートル。
二人の距離は、徐々に徐々に、縮まっていく。
「あと、あと……なんだっけ……」
おかしい。近づいていくたびに、ティーダの姿が滲んで、広がっていくようだ。
そのまま、夜の海に溶けてしまうかのように、じわりと広がっていく。
「……でも、私はキミを楽しませてあげられないよ!」
「そんなことない! ユウナといるの、俺はすっげぇ楽しい!」
「私は、器用じゃないし……」
「そんなの関係ないっしょっ」
「せっかく広まってきた、機械の使い方だって、わかんないし……」
「じゃあ、俺が覚える!」
五メートル。四メートル。三メートル。
本当に、おかしい。こんなに近くにきたのに。もう目の前に、ティーダはいるのに。
それなのに、全然顔が見えない。どうしてだろう。どうしてなんだろう。
二メートル、
一メートル。
「でもっ…でも……」
しゃくりあげながら、何とか話そうとする。でも、何か喋ろうとすると声が喉にひっかかり、上手く話すことができない。頬を伝い、何か温かなものが砂の上に落ちていくのがわかった。
──もう! どうして、何でこんな時に上手く喋れないんだろう!
「でも……何?」
ティーダは、優しげな瞳でユウナを見守った。
ユウナは、濡れた瞳のまま、それを拭うこともなく、ティーダを真っ直ぐに見つめて、精一杯に言の葉を紡ぐ。
「でも……リュックじゃなくて、いいの……?」
───最後の一歩分は、ティーダが踏み出した。
そして、ユウナのことをきつくきつく、抱きしめる。ユウナの腕の中の、赤ん坊と一緒に。温かな彼のぬくもりは、たったそれだけの抱擁だけで、ユウナの凍りつくほどに強張っていた体をほぐしてくれる。
「……あったりまえだっつの」
耳元で囁くように。でも、確かな力強さのこもった声が、聞こえてきた。赤ん坊が腕の中にいるので、ユウナはティーダの背中に腕を回すことはできない。でもその分、ユウナは自分の顔を、ティーダの胸に強く強く押し付ける。息ができなくなるくらいに。目の前が、彼の匂いでいっぱいになる。
「リュックとは……昨日の夜、つか今日の朝……スね。
話してきた。で、きちんとケリ、つけてきた」
「……リュック、泣いてた……?」
「いーや……笑ってたよ。最後、握手してきた」
「……そう……」
「……てゆうか……一番悪いの、俺だもんな……」
と、ティーダは心底申し訳なさそうな声を出す。ユウナはティーダから体を離し、その蒼い瞳を見つめる。そして、赤ん坊が落ちないように抱きなおしてから空いている手で「ほんとだぞ」と、ティーダの額をこんっ、と叩く。ティーダは改めて真面目にユウナに向き直り、
「本当──ごめん」
と、深く体を折り曲げ、謝る。
「もう……もう、絶対に迷わない。ずっとずっと、ユウナの側にいる。どれだけ時間が経っても、遠く離れたとしても。いつまでもユウナのこと、想い続ける。だから──」
だから──ユウナの答え、聞かせてほしい。
ティーダの言葉を受けて、ユウナもまた、ティーダと改めて向き直る。ふと腕元に視線を落とすと、赤ん坊は目覚めていた。ユウナのことを見つめ、笑っている。まるで、ユウナの背中をそっと押しているかのように。
「……答えなんて……」
ユウナは声を震わせながら、涙を流しながら。熱い吐息を漏らしながら。多分、自身の人生の中で、一番格好悪い顔のまま、でも、ありったけの気持ちを込めて、彼女なりの“答え”を告げた。
「答えなんて……最初から、一つだけだったよ……」
そして、ユウナは今度は自分から、
世界で一番大好きな人の胸へと、飛び込んでいった。
重なり合ったその三人の姿は、結婚したばかりの家族にも見えた──。
「……笑えてないって……」
ビサイド村へと続く峠への入り口。月夜の光も届かぬ暗がりに、彼女は独り佇み、そんな二人の様子をじっと見つめてた。だが、二人の影が重なり合った瞬間から、もう見ていられなくなる。それ以上のことを受け止めるのは、少なくとも今の彼女には酷過ぎた。もう、帰ろうと思い、ふと後ろを振り向くと──
「こら。こーんな夜遅くに、何やってんだあ? ……リュック」
「いっ……っ?!」
目の前に体躯のいいワッカが立っていた。体中には汗の水滴がぽつぽつと浮かんでおり、息も少々切れ気味な様子だった。リュックは驚きのあまり、大きな声を出してしまいそうになるが、それを何とか喉の奥へと押し込めた。
「わ……ワッカっ? な、なんでここ……」
「あん? 俺ぁ、アレだよ……ジョギングで通りかかっただけだぜ。夜布団に入る前に体を動かさんと、眠れねえんだ」
「……その割には、成果は出てないみたいだけどぉ……」
と、リュックはワッカの以前よりも幾分かぷっくりと膨らんだ腹を見て、疑惑の視線を向けた。ワッカは苦笑し、
「うるせいやい。……ちょっと、気になったもんでな」
「……ユウナと、ティーダのこと?」
「いいや、お前のこと」
そのワッカの返事を聞いて、リュックは思わず目を見開き、「あたし?」と、驚きの声を上げる。ワッカはユウナと抱き合うティーダの方に視線を向けて、
「あんにゃろう、シーズンが始まったら徹底的にしごいてやっかんな」
と、かすかな怒気を込めながら呟いた。それを聞いてリュックもようやくワッカの真意に気づき、
「えっ、あっ……知ってた、の……?」
と、こわごわと聞く。ワッカは一瞬言葉を詰まらせて、「……あたりまえだ。仲間だろ」と無愛想に言い、そのままそっぽを向いて、ぶつぶつと独り文句を言い始めてしまう。リュックはその様子を見て、またもう一つのことに気づくのだった。
察するに恐らく、ワッカ自身がリュックの気持ちに気づいていたわけではないのだ。先日ティーダは、ワッカの家に赤ん坊を返しに行ったと聞いた。恐らくその際にルールーがティーダの揺れていた気持ちに気づき、そこからリュック自身もティーダのことをどう想っていたかということを、旅をしていた時などの情報を頼りに察したに違いない。そこで何かのきっかけでリュックの気持ちとティーダの気持ちをルールーから聞いたワッカがリュックのことを心配し、恐らくは村中を駆け回りリュックの事を探した上で──これは、彼が体中に浮かべている汗の水滴から推したことだが──今こうして、砂浜までやってきていたのだ。あくまでも推測に過ぎないが、もともとワッカが備えている鈍感さを考えてみれば、この推測にも奇妙なほどに説得力が浮かんでくるというものだ。
その部分では強がっていたいらしいワッカの心情を思い、リュックは思わず苦笑してしまう。
「ふーん。ま、そうゆうことにしといてあげよっかなっ」
と言い、さっさと村へと続く道を歩き始めてしまう。ワッカは急に置いていかれた気分になり(といっても、実際に今置いていかれそうになったのだが)、「お、おい」と、いつもの調子ですぐにリュックの後を追いかける。彼が女性よりも精神的に優位に立てた時間は、やはりほんの僅かのもののようだ。リュックはさくさくと軽い砂音を立てながら歩みを進めていく。それは、普段の彼女そのもののように思える。ワッカはその様子にさらなる不安を覚え、
「おい、リュックよ──」
「──昨日の夜さ」
と、声をかけようとするが、すぐにリュックに遮られてしまう。
「昨日の夜、あいつ、ぐしょぐしょに濡れて、あたしの部屋来たんだ。なんかすっごい疲れてるみたいで、でも目だけはなんか、真ぁ〜っ直ぐで。……海の匂いがしたなあ。でね、部屋に入れるなり、“ごめん!”って言うの。何が、とかどうして謝るの、って聞いても、ずぅっと、ずぅっと“ごめん!”って。それしか言わなかった」
いつもの調子で話し、いつもの調子で歩くリュックの背中。それを見つめるワッカの瞳には、彼女の表情までは分からない。リュックはワッカの返事も待たず、続きを話し始める。
「で、あいつも段々落ち着いてきたみたいで、それからニ、三時間は話したのかな。大事なこととか、どうでもいいこととか。まるで、旅してた時みたいにさ、ずーっと話してた。不思議なくらい、自然だったなあ」
ビサイドで最も高い場所に位置する峠に差し掛かった頃、不意にリュックは立ち止まる。いつもよりもずっと強い輝きを放つ月を見上げ、そしてまた、続きを話す。
「そしたらね、急にあいつ黙り込んだの。あたしがどしたの、って聞くと、あたしの顔、じっと見つめたまま、また、“ごめん”って言ったんだ。低い、きれいな声で。──その言葉で、全部、通じた。あたしも、うん、って。きちんと応えた。
んで、帰りがけに玄関でさ、ぎゅうっ、て握手した。すんごく強く握ってくるから、あたしもめいっぱい強く握り返してやった。……にっこにこ笑って、握り返してやったんだあ」
自分の右手を見つめながら、リュックは呟くように話す。語尾が段々と掠れていき、声も徐々に徐々に、震えていく。リュックは右の掌を広げられるだけ広げ、ぐっ、と月にかざす。
「──それで──」
掌と、月とを同時に睨みながら、リュックは眉をぎゅっ、としかめ、
「──それで、良かったよねぇ……
あたし、間違ってなかったよね……?」
唇を噛み締めて、何とか声を絞り出す。
「もっと、何か言ってあげれば良かったのかなあ……
もっと、何かしてあげられたんじゃないかなあ……
そのほうが、あいつも安心できたかなあ……? ……でも、無理だったよ。だって、あれ以上何か言おうとしてたらさ、あたし──」
「……いいや」
頬から次々と零れ落ちる涙を拭おうとしないままに独白を続けるリュックに、ワッカは嘆息を一つつき、彼女の肩を力強く掴んだ。
「きっと、間違ってなかった。そのはずだぜ」
その声に、リュックの心がぐらり、と震える。そして、ワッカの手を振り払い、
「あーもうっ! 優しくすんなー! 優しくされたらさあ、泣いちゃうじゃん!」
「もう泣いてるだろーが」
「もっと泣くってことー! 分かってよお、そんくらい!」
涙を流しながら無茶苦茶を言うリュックに、ワッカは苦笑する。
「……ルーが今頃、うちで茶でも淹れてるはずだ。寄ってけ」
「……優しくすんな、っつってる側からこれだもん……ぷにぷに君のくせにー」
と、ワッカの腹をぱすぱすと何度も叩く。ぐすっ、と鼻をすすりながら、それでも何とか……笑う事が、できた。ワッカもリュックの笑顔を見て、もともと細かった目をより一層細めながら、
「甘えられる時ゃ、とことん甘えておくのが一番なんだよ。お前は特に普段から気張ってるからな」
──やはり、今日ばかりはワッカの方が上手(うわて)なようだった。リュックはようやく、「じゃあ……今日だけは、お言葉に甘えさせてイタダキマス」と、心からの素直な気持ちで言うことができた。村へと続く坂道を降りながら、リュックは明日を想い、ビサイドの星々を見上げた。
──明日の夕方くらいに、ユウナんの家に遊びに行こう。
とびっきりの笑顔で、「おかえり!」って言ってあげるんだ。
そして、ユウナんを安心させてあげよう。
あいつも……ついでに、安心させてあげようかな。ダメ押しで!
ティーダとユウナが二人でいる姿を思い浮かべる。二人とも、とても幸せそうな顔をしている。それを思うリュックの顔にも、ふっ、と自然な笑顔が灯る。そして──ある考えが、脳裏をよぎったのだった。
「──ああ、そうかあ……」
ぽつり、と誰とはなしに呟いた。そっか。そうだったんだ。
──ユウナんのことが好きで大切でしょうがない。
あたしは、そんな“あいつ”のことが、好きだったんだ──。
リュックは、頬に涙を、口元に大きな笑みを浮かべたまま、駆け下りるかのように村へと続く坂道を下っていく。その時、村の方から誰かがやってくるのが見えた。ビサイド村から峠へと続くひどく急な坂道を、難なく登ってくる。
「あれ……誰だろ……?」
リュックが首をかしげていると、ワッカがじっ、と目を凝らし、「……ありゃあ…ありゃあ、ルッツだ。村で何かあったのか……?」アルベドのホームのような電灯が存在しないビサイドでは、ワッカの方が闇夜に慣れているようだった。この時点ではリュックがどんなに目を凝らしても、それがルッツだということを確認できなかった。が、なるほど、ほんの十メートルほどのところまで近づくと、見覚えのある赤髪。確かに、ルッツだった。ルッツはワッカの姿を見つけるなり、安堵の表情を浮かべる。
「ああ、ワッカ……! こんなところにいたのか、探したぞ!」
「探した? 俺を? ……おい、何があったんだ?」
「ルールーが……ルールーが、産気づいたんだ!」
『ええっ!?』
リュックとワッカの驚きの声が、見事に重なる。特にワッカの驚きようといったらなく、普段は線を一本引いたようでしかない瞳を、それは大きく見開いていた。
「ワッカ、やったね!」
「え、えぇ?! あ、ああぁ、そ、そうだな」
当のワッカは相変わらず動揺を抑えきれないようで、ひどく狼狽してしまっている。その報告を、どう受け止めていいのかも分からないようだった。
「もう産婆さんがついてる! ワッカ、お前も側へ行ってやれ!」
ルッツに背中を思い切り叩かれ、「いっでっ! おまっ…イテェって!!」と抗議する。が、どうやらそのおかげで多少は落ち着いたらしい。下唇をぐっ、と噛み、ルッツと向き直る。ルッツは親指をぐっ、と立て、父になる男へ心からの激励を贈った。ワッカもそれを受け、うん、と大きく頷き、
「……分かった。ルッツ、ありがとな!」
と言い、村への坂を猛スピードで駆け下りていったのだった。ルッツもそれに続いて、降りてゆく。リュックも「あっ、待ってよ! あたしもなんか、手伝うよー!」と追いかけようとするが、ふと立ち止まり、浜辺の方向へ目をやる。ここからは二人がいるであろう浜辺は見えるはずもないのだが、それでも、振り返らずにはいられなかった。
──二人とも。
幸せになってね。
……ううん、なれるよ。きっと、幸せになれる。
そうじゃなきゃあいつ、タダじゃおかないんだから!
ティーダの、大きな手と触れた右手をじっ、と見つめ、リュックはふっ、と微笑む。
全く、前も、後ろも、幸せだらけだ。
悲しみを乗り越える彼女は黄金色に輝く満月に向かい、深夜だという事も忘れ、高らかに宣言する。
「さあってとっ! あたしも、シアワセに、なるぞお〜〜っ!」
その宣言を受けた空は、彼女の誓いを祝福するかのように白み始めたのだった。
最早、明け方も近くなった頃。
ティーダとユウナは、未だ砂浜にいた。あれから、二人で本当にたくさんのことを話していたのだった。その話題の数は、星の数とも思えるほどだった。ここ暫くの間、二人の間に生まれていた溝を埋めていく作業の最中、眠気など催すことも、全くなかった。深夜だということで冷たくなるだろう気温のことだけは気にはなっていたが、幸いにも今夜は春の温もりにも似た暖かさが保たれ、心配するほどのこともなかった。その間赤ん坊は目覚めては眠ることを繰り返していて、今もちょうど、幾度目かの眠りから覚め、何も知らないかのような無垢な表情で、ティーダとユウナの顔を見上げていた。二人はその子供の表情にすっかりと見とれてしまい、目を覚ました赤ん坊を指先であやしながら、自然と生まれ出でる微笑を零しあった。
しばらくの間ユウナが赤ん坊をあやしていたが、ティーダがそうっ、と手を伸ばし始める。恐る恐る、という風でもなく。ユウナは、リンから聞いた話を思い出した。確か、赤ん坊はティーダに触れられると泣き出してしまうのだ。
「──ティーダ……」
しぃーーー。ティーダは人差し指を唇に当て、静かにという合図を出す。穏やかな表情のまま、ティーダはその大きな手を赤ん坊へと近づけ──柔らかな頬に、限りなく優しく触れた。ユウナは驚いたように目を見開いて、
「大丈夫……なの?」
と問う。ティーダは、やはり穏やかな顔で、「ああ」と静かに言った。
「……“大丈夫”。そう言って俺の背中押してくれたの、実はこいつなんだ」
「え?」
怪訝な顔をするユウナに、ティーダはくすりと笑い、
「昨日の夜、宿舎から帰ってきたとき、まだ不安だった……てゆうか、単純にヘコんでたんスよ。で、寝ようと思ったんだけど、“そういやあの赤ん坊ってどうしてるだろ”って思って、顔見に行ったんだ」
そこまで聞いて、ユウナは「あ」と、思わず声を出してしまっていた。あの時だ。眠れなくて夜更かししていた時、ティーダが何も言わずにソファで寝た昨日のこと。
「ユウナの部屋に入って、そーっと触ろうとしたら、こいつあっという間に目を覚ましてさ。俺のことじぃー…って見てた。でも、さ。前みたいに、嫌な雰囲気はしなかったんだよな。それで──」
そこで、それまでティーダにされるがままになっていた赤ん坊がもぞもぞと動き、「あー」と小さな声を上げながら、ティーダの指を掴んだ。ティーダの表情も、一層緩む。
「……こんな風に、さ。俺の指、掴んだんだ。こんなちっちゃいのに、力、けっこう強いんだよなあ。なんか……励まされちゃってさ。“大丈夫”って言ってもらってる気がした」
ユウナも、その現場を見ていた。その時はひどく老成した、不思議なほどに老成した表情をしていたというのに、今ではそういったものはカケラほども見当たらなくなっていた。一見してただの、普通の赤ん坊。
「……不思議な子だね」
「……そっスね」
「誰の、子供なんだろう」
「前に一度村に来た時から村で聞き込みしてたんだけどさ、それらしい話もなくって、少なくともビサイドの子じゃないみたいだ。今日キーリカに行った時も、島の全員……とは言わないけど、めぼしい人に当たってみたけど、キーリカじゃ子供が生まれた、だなんて話は最近じゃないって言ってた」
「見つかる、のかなあ」
「……んん〜……見つかんない、かもなあ……」
見つかる、見つからないという話をしてはいたが、実際二人の心の中では、“見つからない”と、ほぼ確信に近い気持ちでいたのだ。これまでのことを考えても、この子はいろいろな意味で、普通じゃなさすぎる。それを思うと、この子には親という存在が果たして本当にいたのか、ということですら、怪しく思えた。
「……もし。もし、さ」
「え?」
ティーダがぽつり、と呟き始める。
「もし、こいつの親が見つからなかったら、さ……。
俺たちで、育てようか……? 家族、になってさ。
俺がこいつにとっていっちばん鬱陶し〜、親バカなファーザーになって、
で、ユウナが、こいつにとっていっちばん自慢できる、優しいマザーになる」
そのティーダの言葉に、ユウナは言葉を失う。家族に、なる。ティーダは赤ん坊を軽々と持ち上げ、優しく、優しく抱きしめる。腕の中で赤ん坊は二人を見上げ、きゃっ、きゃっ、とはしゃいでいた。
「……ねえ、それって……」
「イイ感じなアイディア……だと、思うんスけど」
照れ混じりに言うティーダの言葉に、ユウナはふうっ、と笑みを浮かべる。頬をほんのりと、幸福のピンク色に染めながら。そして、ティーダの肩に寄り添うようにして、
──とっても。素敵、だね。
と囁いたのだった。
─────その瞬間のことだった。
突然、赤ん坊から、強烈な光が発せられた。
「!」
「えっ……!」
驚く二人。が、事態はそれだけでは終わらなかった。赤ん坊は、尋常ではない何か強い力に導かれ、抱いているティーダの腕を弾くように振り切り、海のほうへと飛び去るような勢いで向かっていく。
「ちょっ、ちょっと待てよっ!」
すかさずティーダは追いかけるが、ギリギリのところで追いつけない。走りながらぐぐっ、と手を伸ばし掴まえようとするが、届かない。赤ん坊は、光の中でティーダのことを見ていた。ティーダもまた、赤ん坊を見つめる。「ちょっ……待てっつってんだろ!」と、全力で走るも、あとほんの少し、という境界線を越えられない。赤ん坊は波に攫われるかのように緩急のついた動きで飛んでいたが、どうしても追いつけないままだった。あと、ほんの少しなのに。ユウナと、お前と、家族になるって、決めたのに──!
その時。
赤ん坊はティーダを見てふわっ、と笑ったのだ。
顔中をくしゃくしゃにしながら。
その笑顔はティーダの心に、あまりにも素直に染み渡った。
「──あ──」
赤ん坊はさらに強い光に包まれ、その真っ白な笑顔も、光の中に溶け消える。そして、次の瞬間には赤ん坊は白み始めた空の中で尚も輝きを放つ満月に向かって、吸い込まれていくように消えていったのだった……。
「……ホント…に…消えたのか……?」
夢でも見たのか、というような口調で呟くティーダ。最早目の前には赤ん坊が放った光の残像すらなく、ただただ白んでいく空と、いつまでも打ち寄せる波音だけが在った。ティーダが振り返ると、ユウナは赤ん坊が消えた方向を、じっと見つめていた。
「……消え……ちゃった……」
これから。これから、だったのに。これから、やっと歩いていけると思っていたのに。三人で、同じ道を歩いていけるって。そう思っていたのに。
──それなのに──
「!」
ユウナの視界がぐらり、と揺れた。ティーダはすぐに側に駆け寄り、倒れかけるユウナの体をしっかりと支えた。
「ユウナ…ユウナ!」
……せっかく、せっかく、家族になれるって。そう思ってたのに……
一番嫌なタイミングで、一番嫌なところしか、見せてあげられなかった。しっかり面倒を見てあげる余裕すら、なかった。ティーダとも話し合い、理解しあって、本当にこれから、という時だったのに。これから、三人で、いつまでも笑顔で、過ごしていけると思っていたのに。想像していたよりも、遥かに大きな喪失感だった。
どうして、もっと可愛がってあげられなかったんだろう。
どうして、もっと側にいられなかったのだろう。
どうして、たったの数日しか一緒にいられなかったのだろう。
もっともっと、側にいてほしかった。
できることなら、これからもずっと、と。そう思っていたというのに──。
「……ユウナ」
ティーダが、背後からユウナを力強く抱きしめる。ティーダはそのまま首元に顔をうずめ、唇だけを動かして、ユウナ、と何度も何度も呼びつづける。ユウナは自分を抱きしめるティーダの腕を力の限りに掴んだ。ティーダはユウナの耳元に唇を寄せ、
「泣かないで」
と囁く。ユウナは、こくり、と頷くが、それ以上は言葉にならなかった。
「大丈夫。あいつは、大丈夫だよ。きっと、あいつの本当の親のところに帰ったんだ。じゃなきゃ、またどこかに飛んでいっただけだよ。それなら、また会う時がきっとくる。そうだろ、ユウナ」
「──うん」
ユウナの強張った体が、少しずつほぐれる。
「それに、もし会えなかったら……俺たちで、家族を作ろう。俺たちで、子供を作ろう」
──え。ユウナはティーダの顔を見上げる。
「大丈夫だよ、ユウナ」
ティーダはユウナの瞳を真っ直ぐに見つめて、
「あいつがいなくなったって、俺達は変わらない。
もしも俺達の間に足りないものがあるのなら、
二人で考えてさ、一緒に埋めていこう。
だから──泣かないで」
「……うん……ありがとう……」
二人はそうして、しばらくの間、抱きあっていた。
そうしている間に、ユウナの中にあった喪失感も徐々に徐々に、埋まっていく。白んでいく空の明かりと一緒に二人も溶け、そのまま一つになってしまうかのような安心感。二人は、そのまま夜明けを迎える──。
……はずだったのだが。
「……あっ!!??」
突如、ティーダが大声をあげたのだ。その余りに大きな声に、ユウナは驚き「えっ、ど、どうしたの…?」と、困惑の色を浮かべる。
「やっべえ! もう空、白んでんじゃん! あ〜、全っ然気づかなかった〜!」
と、一人慌てふためくティーダの様子を見て、彼が慌てる理由がさっぱり分からないユウナはただただ戸惑うばかりだ。ティーダは少しの間ぶつぶつと何か独り言を呟いた後、不意にユウナに向き直り、
「ユウナ、走れるッスか!?」
「え? は、走る?」
「あ〜、いい、いい! こうした方が早いから!!」
と、ティーダは返事も待たず、ユウナをいきなり抱き起こし、そのスマートでありながらも逞しい腕の中に抱き上げる。いわゆる、お姫様抱っこ、というような形だ。
「きゃっ、な、何っ? なんなの?」
「説明は後! とにかく急がなきゃなんないんだ! ……あ〜っもう、何のために話す場所に浜辺選んだのか、わかんないじゃんかよ、これじゃあ……っ!」
と、ぶつぶつと言いながら、ティーダはユウナを抱きかかえたまま、ビサイドの村の方へ向かって駆け出したのだった。
……ユウナ。もう、泣くなよ
──うん
ユウナを抱きかかえながらも、その走る速度には微塵の衰えも見せないティーダは最初の分岐点を左へ曲がり、長く続く滝の道へと入る。
「ねえっ、いったい、なんなの?」
ユウナが困り果てた顔で、ティーダに訪ねる。
……幸せに、なろう
……うん。なろう。幸せになろう。
……ううん、きっとなれる。絶対、幸せになれるよ
二つ目の滝の下を走り抜け、尚もティーダは道を走る。スピードに衰えこそはないものの、さすがに人一人抱えながら走るということは想像以上の体力を消耗するようで、額にうっすらと汗を浮かべながら、ティーダはなんとかユウナの問いに答えようとした。
「前に……っ、約束、しただろ!!」
「……約束……?」
あはは、すごい自信
そうかな……変、かな?
そんなことない。……嬉しいよ
「……約束、たくさんしすぎて、どれのことだか分かんないよ!」
ユウナを抱えたティーダは滝の道を通り過ぎ、遺跡の道へと入る。朝露を含んだ古い遺跡の独特の香りが、鼻腔を刺激する。ティーダは、息も切れ切れのままに、約束の言葉を再び、話し始めた。
「“夜明け前に……海を見に行こう”!」
「……え……?」
……でもね、信じられるんだ。とても不思議だけど。
……だって──
「“町の灯が一つずつ消えて、星も消えて……
代わりに水平線が、パァーーッって明るくなっていく”!」
ユウナもようやくティーダが放つ言葉を思い出し、
「……“バラ色、っていうんだろうな”……?」
そのユウナの言葉を聞き、「そうそう!」とティーダも真っ白な歯を見せて、笑顔を作る。
遺跡の道を駆けながら、二人はいつか交わした言葉を反芻した。
「“海と”」
「“空と”」
「“町も、全部染まる”」
「“きれいなんだ。すごく……ユウナにも、見せたい”!」
最後の、坂道。
ティーダは体から汗を噴出しながら、ラストスパートをかける。ユウナは、かつて言ったその言葉を、再び口にする。以前とは全く違う気持ちで。もっともっと、希望に溢れた気持ちで。
「“見に、行きたいなあ”!」
あの時も。今も。
ティーダの言葉は、変わらない。気持ちも、変わることはない。
ティーダは胸一杯に息を吸い込み、あの時、果たす事のできなかった言葉を、再び唇にのせた。
「“連れてくって!
一緒にいこうよ”!!」
───だって、あの子と出会えたんだもの───
二人がビサイドで最も高い位置にあるという峠に辿り着いた瞬間。
水平線の向こう側から、金色の朝日が昇ってきた。
深遠なる闇に包まれていた夜の帳を全て吹き飛ばすかのように、力強く立ち上る太陽。その光は全てを包み込み、世界の全てに夜の終わりを告げる。世界の目覚めに触れた二人は、しばらくの間、言葉もなくそこに立ち尽くしていた。
「……すごい……」
「どう? ヤバクないスか?」
ティーダのザナルカンド風に崩された言葉にユウナは笑みを浮かべて、調子を合わせ、「……ヤバイ、かも」と呟くように言い、笑った。
本当に、本当にティーダの言うとおりだ。
ビサイドの村も、海も、生命力溢れる緑の山々でさえも、何もかもが朝の光に包まれ、バラ色に染まっていく。
「俺、すっげぇ探したんだよ。どこから見たら、一番きれいかな〜って。ザナルカンドのは……見せてあげられなかったからさ。ホントなら、ルカのミヘン街道に続く階段、あるじゃん? あそこから見るルカの町並み、ってのが、一番ザナルカンドのに近いかな〜、って思ったんだけど、あそこは遠すぎるし……ビサイドじゃあ、ここが一番だった。……代用品、で申しわけないんすけど」
と言い、苦笑するティーダだったが、ユウナは朝日を見つめたまま、
「ううんっ、すごいよ。本当……すごすぎる……」
「……あー、良かった……俺も、今すっごいほっとした」
ティーダもユウナの表情を見て、満足げに笑みを浮かべる。そんなティーダを見て、ユウナは喜びの絶頂にありながらも何となく、くすぐったくなってしまう。
「もう……もうっ、いつ、探してたのー、こんなの!」
と、たまらない、といった感じでティーダをとん、と押す。ティーダはそんなユウナの手を受け止め、再び笑い、今度はユウナを抱き寄せ、力の限りに抱きしめる。ユウナもまた、ティーダの背に腕を回し、掠れた声で呟いた。
「もう……本当、“もう”、しか言えないよ……」
朝の光に見守られたまま、大好きな人の匂いを思い切り吸う。
海の匂いがする彼の背はユウナのその細い腕では抱えきれないほどに、
広く、大きかった……。
あの赤ん坊がどこから来たのか、どこへ行ったのか。
それは結局、私たちには分からないままです。
その答えが出たとしても、出なかったとしても、
どんな毎日を過ごしても、道に迷っていたとしても、
どこへ向かえばいいのかすら、分からなかったとしても。
それでも必ず、朝はまた、やって来ます。
でも──。
それはけしてけして、悲しいことではないと思います。
どこまでも、どこまでも希望に溢れているものだと、そう思います。
手元にある、当たり前の“これから”を大切に想おう。
私たちの周りに在るものの全てが、私たちの“これから”へと連なる、
大切なものなのだから。
それでも、もし。
もし、道に迷って、深く、暗い迷いの森に彷徨ってしまったならば。
その時には、もしかしたらまた、あの赤ん坊がやってくるかもしれません。
闇に包まれた私たちの道を、
優しく差し込む月明かりのように照らしてくれるかもしれない。
私たちの、“これから”への道しるべとなってくれるかもしれない。
でも、私たちはもう、大丈夫。
あの子が、私たちに向かって微笑んでくれたから。
きっときっと、
私たちはもう、
私たちだけの“これから”への道を、踏み出しているはずだから───。
え?
どうして、そんなに“幸せになれる”って、
自信たっぷりに言えるのかって?
ふふ……だってね、
あの子と出会った人たちは、
───みーんな、幸せになれたんだから───
最終話 END
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