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イヴの夜空はあの人と | |||||
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〜Winter comes around〜リノア・サイファー 冬が、やってきた。 すっ、すっ、はっ、はっ。 すっ、すっ、はっ、はっ。 私は、規則正しいリズムで足を交互に繰り出し、夜の町を駆けていた。少し伸びすぎた黒髪が風に揺れてしゅるしゅると音を立てていたけれど、そんなこと、気にしていられない。普段は淡い青色の彩色に纏められていたこの町は、今日という特別な日のために煌びやかに飾り付けられていた。 赤色。 青色。 黄色。 緑色。 オレンジ。 他にもたくさんの色の光が、町のそこかしこで瞬いていた。 きらきらだ。きらきら。 何だか、星の海にいるみたい。私はそんなことをふと考えて、一人でにっこりと笑ってしまった。私は今にも踊り出してしまいそうな気持ちを抑えきれずに、走るスピードをほんの少しだけ速めて、冬の冷気を胸一杯に吸い込みながら、色とりどりの星の海を泳ぐようにして、駆けていった。周囲の好奇の視線なんて、全然気にならなかった。それぐらいに、この夜の海は心地よかったんだ。 早く、早く行こう。 あいつが待ってる、あの場所へ。 あいつとの、約束の場所へ。 ───からんからん。 ドアに飾り付けられたカウベルの音が、暖房で良く温められた喫茶店の中に響き渡った。その途端に、お店の中の視線のほとんどが、私に集められた。私は一瞬それに驚いて身を縮ませてしまったが、すぐにその視線は外される事になる。 何のことはなかった。 皆、待ち合わせている人なのかと思っただけなんだ。 店の中は既にいっぱいで、空いている席なんて一つもなかった。私は呼吸を整えようともせずに、店中に目を行き渡らせる。 喫茶店と言っても、その様相はむしろショット・バーに近いものがあった。打ちっぱなしの壁と、よく磨きこまれた鉄板を張り合わせたような、でも、使いやすさという点をあくまで重視した作りになっている銀色のカウンター。灰や銀などの金属質なものが目立つ為、一瞬パンク系のものと勘違いして入るのを躊躇してしまう時があるけれど、でも、柔らかな照明と要所要所に計算されて配置された観葉植物などが、この店の気品を貶めないようにしていた。 ここは、私が大好きな場所。 あいつとの、約束の場所。 どこかにいるはずのあいつの姿を探して、私は物珍しそうに私を見る周囲の視線などものともせずに、店内へ視線を走らせた。 窓際の席には───いない。 真ん中の席は───いない。 カウンターにも───…いない。 ───なぁんだ、まだ、来てないんだ。 私はようやく、ふぅ〜っ、と息をついて、そのまま待ち合い席に腰を下ろしてしまった。真冬だというのに、額からは汗が滲み出ていた。湿気を帯びて額に張り付く髪の毛が少々うざったくなって、私は髪を乱暴に掻き揚げた。 時間に間に合いそうもなかったから、せっかく走ってきたのに。よく考えたら、あいつが時間どおりに来るはずがなかったんだ。急いだだけ損をしてしまった気分だった。お店にある、リースの飾り付けがなされた壁掛け時計に目をやると、既に約束していた時間から10分も経過してしまっている。 あいつのが遅刻してるんだ…良かった…。 人が時間に遅れると、とことん愚痴愚痴言う人だ。遅刻していたことがバレると、きっと来週末までぶつぶつと文句を言うであろうことは、目に見えていた。 ───待てよ? そこで、ある考えが脳裏をよぎった。そうだ。たまには、私がぶつくさ言ってやればいいんだ。いつもいつも自分のほうが遅れてくるくせに、たまに私が遅れると、ここぞとばかりに文句を言ってくる。だからたまには、私も好きなように言ってやろう。それくらいしたって、罰なんて当たらないよね。 ───こつんっ。 「あ痛っ」 そうしてニヤニヤしていると、不意に後ろ頭を小突かれた。振り返ると、そこには見慣れた金髪のオールバック。自信たっぷりの、エメラルド・グリーンの瞳があった。 『あいつ』だ。 「何すんのよ〜」 私が抗議の声を上げると、あいつはいつもと同じように、 「おっせ〜よ」 と言い放ち、もう一度、汗で湿った私の額を小突いた。 ───こつん。 あいつの指が私のどこかに触れるたび、そこからあたたかな波紋がゆっくりと広がり、全身を駆け巡るのを感じる。私は、こうして誰か好きな人と触れたり触れられたりすることが大好きだった。私が大好きな人との触れ合いは、特に好き。 何だか、それだけで幸せになってしまいそうで、思わずぼ〜っとしてしまったけれど、私は当初予定していた、あいつを馬鹿にするという計画をふと思い出し、我に返った。そうだ、たまのこんな機会だからこそ、せいぜい言わせてもらわなきゃ。 「御言葉ですけど。今日は、あなたの方が遅刻してきたんじゃないの?」 私はあいつに負けないくらいに自信たっぷりに言ったけれど、あいつの表情が動揺で揺らぐことはなかった。 「バカ、俺のがとっくに先に来てたんだよ。席だってとってあんだからな」 「───え?」 思わぬ返事に、私は瞳を見開いて、言葉を詰まらせてしまった。だって、今───。 私の内心の動揺を察したのかそうでないのか。あいつは事も無げに、 「トイレ行ってたんだよ、トイレ。ほれ、行くぞ」 そう言い残し、さっさと店の奥へと歩を進めてしまう。私はせっかくの復讐の機会──というと語弊があるかな──を逃してしまったことで、ほんの少しだけ、不満を思ってしまったけれど、あいつと出会えた事の嬉しさの方が大きくて、大きくて。私は賑わいで一杯の喫茶店の中に消えていきそうなあいつの背中を、子供のように追いかけた。 あいつが確保していたのは、窓際の席だった。 銀色のテーブルの上には、オレンジの耐熱グラスに包まれた、淡いキャンドル、そして、多分あいつが頼んでいただろう、まだ淹れたてのコーヒーが置かれていた。 大きなガラス窓の外を見ると、今にも雪が降り出しそうな寒空の下を大勢に人々が歩いていた。大きなガラス窓は、額縁みたいだ。冷気に怯むことなく歩いていく人々の顔は、全て笑顔だった。この凍えるような寒さに負けることなく、道行く人々が笑顔でいられるのは、自分の隣にそっといてくれる、大切な人がくれた魔法のおかげなんだ。 あいつもその光景に吸い込まれるようにしながら、スツールに腰掛けた。 それを見て、私は思わずくすり、と笑ってしまった。窓際の席とかに進んで座りたがるみたいな子供っぽい所、全然変わってないなあ。あいつの、「いつも」を感じ取っただけで、心が弾んでしまう自分に、「単純」と笑顔で悪態をつくと、私もあいつと向かい合うように、座席へ着いた。 それを見計らったかのようなタイミングで、ウェイトレスがすっ、と近づいてくる。感じのいい、といっても作りすぎて、気取った感もない。そんな、デイジーみたいな笑顔を振りまきながら、まだ私とそう年も変わらないだろう、若いウェイトレスは 「御注文はお決まりでしょうか?」 と聞いてきた。私は少しの間メニューを見て、む〜、と唸る。 ───実は、まだ決まってないんだよねえ…。 パステル調の可愛い感じに彩られたページを、じ〜っと見つめる。ぺらり、ぺらりとページを捲ってみたけれど、私がいっぺんに気に入るようなメニューは見つからなかった。お腹が減りすぎたわけでもなく、かといって何も食べないでいられるほど、満腹でもなく。こういう状態の時って、一番メニューを決めづらい時なんだ。 メニューを眺めていると、ふと、あいつとウェイトレスの視線が気になった。…ま、待たせちゃってるなあ〜…。それはきっとほんの少しの間だったと思ったけれど、私はこの沈黙に耐え切れなくなって、かといって今すぐにメニューを決める、という気持ちにもなれなくて。不意にあいつに、 「ね、何にする?」 と聞いてみた。するとあいつは、黙ったまま、埃一つない、ぴかぴかに磨き上げられた銀色のテーブルの上に置かれた、少し大きめのティーカップを指さした。そこに注がれているのは、琥珀色の、湯気を立てた淹れたてのコーヒー。私は何も言えなくなって、「あ、ソウデシタ…」と、再びメニューと睨めっこをすることになった。 にこにこと笑みを浮かべながら待つウェイトレス。 何をするわけでもなく、時折カップに手を伸ばし、静かにコーヒーを啜るあいつ。 誰が急き立てているわけでもないのに、何故だか私は早くメニューを決めなければならない、という不思議な思いに駆り立てられていて、変に焦っていた。早く、早く何か、決めないと…。私はとっさにデザートのページを開いて、視線を走らせた。目に付いたのは、一番安い値段だった、こんがりと良く焼けたアップルタルトの写真。 「あ、あの、これと…あと、ミルクティー、ください」 発した言葉が、自分が思っていたよりもずっと早いスピードだったことに多少びっくりしてしまったものの、私は何とか目の前の愛らしいウェイトレスに、ようやく注文を告げることができた。ウェイトレスは「かしこまりました」と小さく会釈すると、足音をほとんど立てない独特な歩き方で、厨房の方へと消えていった。 そして、私とあいつ、二人きり。 会話は生まれてこなかった。あいつはただ、黙ったままいつもと同じ、ぶっきらぼうな表情でそこにいるだけ。キャンドルの、オレンジ色の光のせいだろうか、あいつの頬はほんのりと赤色に染まっているような気がした。何だか、それがとても艶っぽく見えてしまって、それだけで私は背筋からぞくぞくするような、奇妙な感覚に襲われてしまう。でもそれは決して嫌なものではなくて、むしろ心地いいとさえ思えてしまう感じ。ああ、私って、本当に単純だ。 「なんか、久しぶりだよねえ」 私は上手く言葉も見つけられずに、ただにこにことしたまま、言った。あいつは私を視線を移すこともなく、窓の向こうにいる人々をじっと見つめたまま、 「───そうか?」 と、一言だけ返す。私はそんなあいつの様子に気づかず、同じ調子で続ける。 「うん、そう。だって、ずっとあっちの方に行ったままだったでしょ。 この町に帰ってくるのだって久しぶりだし」 「───ああ、そうか」 あいつは、抑揚のない感じで、答える。でも、それは特別な事ではなかった。あいつはいつもこんな感じで、私の話を聞いているのか聞いていないのか、わからない風で、いつでもつまらなそうに相槌を打つだけ。私は、最初はそれが嫌で何度もケンカしたりしたけれど、それがあいつなんだっていうのがわかってからは、私はとにかく、あいつに楽しんでもらおうって思って、いつもいつでも精一杯、自分が知っている限りの楽しい話を聞かせてあげていた。 あいつは一年のほとんどを、この町から、ずぅっと離れた、遠い養成学校に通っていて、その学校内の寮で普段は暮らしている。だから、あいつと会えるのは本当に限られた、特別な日だけだった。私はあいつと会えないその間、あいつに話して聞かせる楽しい話を、できるだけたくさん集めていた。 それは、大きな事から、小さな事まで、どんなことでも良かった。 友達の誕生日パーティに遊びに行った時、せっかくのパーティで精一杯きれいにお化粧したのに、出かけた途端に降りだした雨に濡れてしまって、友達の家に着く頃には丁寧に描いた眉毛まで消えちゃって、皆に大笑いされちゃったこととか。 髪をずっと伸ばしていて、この間電車に乗った時にぼ〜っとしてて、目的の駅に辿り着いてもまだぼ〜っとしてて。それで、駅員の「ドアが閉まります」って声を聞いてやっと「あ、降りなきゃ!」って思って、慌てて電車から降りようとしたら、急に閉まりだしたドアに伸びた髪の毛が挟まっちゃって、散々な目にあっちゃったこととか。 それまで着ていた服よりも、ワンサイズ下の服を着れるようになったこととか。 大好きなアーティストのCDがやっと手に入ったこととか。そういう話。 あいつが帰ってきた時、退屈な思いをしないように。 ほんの少しでも楽しい思いをさせてあげるように。 私は自分の持てる知識を総動員させて、あいつに精一杯のもてなしをしてあげる。そしてあいつは、それを黙ったまま、頷いて聞くだけ。 ほんの、それだけ。 でも、たったそれだけの時間が、私にとっては宝物のようだった。たったそれだけで、私はどれだけの幸せをあいつから貰っているのだろう。そして今回も例に漏れずに、私は子供みたいに頬を赤く染めながら、一生懸命に話し始めた。 「それじゃあね、報告しまっす!へへ、あのね、いろんな事があったんだよ。この間、え〜と、1ヶ月くらい前かなあ。うん、確かそれくらい。友達と一緒にね…」 と、最初の話を切り出した時、先ほどの素敵な笑顔を浮かべたウェイトレスが再びやってきた。 「こちらミルクティーと、アップルタルトになります」 私は何となく続きを話しづらくなって、口を閉じてしまった。彼女は黙ったまま、トレイの上に乗せてある、愛らしい形のティーカップと、こんがりと焼き上げられたアップルタルトを銀のテーブルの上に移した。その様子を、私は黙ってみている。あいつは相変わらず、道行く人々に視線を預けたままだけど。食器はトレイからテーブルへと移し変えられるたびに、かちゃり、かちゃりと、極僅かな音を立てた。ミルクティーとアップルタルトの甘い香りが、私の鼻をくすぐった。 「ごゆっくりどうぞ」 彼女はぺこりと軽く会釈をすると、私も何となく、会釈を返してしまった。それを見て彼女はにこり、と一層愛らしい、自然な笑顔を浮かべると、再び音もなく厨房の奥へと消えていった。私は何となく彼女の魅力の残り香のようなものに囚われたままになってしまった。 ああいう女の子を、やっぱり男の子も素直に可愛いと思うんだろうなあ───。 そんなことをぼうっ、と考えたままミルクティーを一啜り。ほどよく熱せられたミルクの柔らかな甘味が口の中を満たし、喉の奥へとなだらかに滑っていく。美味しい。あの子が入れたのだろうか。私は次にフォークを手にとって、アップルタルトを食べてみることにした。タルトの端を切り取ろうとフォークを当てる。 ───かたん。 タルトを切り離したフォークはそのまま勢い良く皿に当たり、想像していたよりもずっと大きな音を立てた。一瞬びっくりしてしまったけれど、幸いにも周りの人は今、自分の目の前にいる大切な人に夢中で誰一人としてこちらの音を気にしてはいなかった。私はほっと、安堵の溜め息をつく。 私は昔からものを食べるのが下手くそで、御飯ものなどを食べる時もしょっちゅう取りこぼしてしまうし、こういうタルトとかケーキを食べる時にも、かちゃかちゃと、いつも音を立ててしまうのだ。 小さく切り取られたタルトの一角を、口に運ぶ。甘酸っぱい、リンゴの独特の風味が口一杯に広がって、思わず笑みが零れてしまった。美味しい。素直に、美味しい。 「───あ」 食べるのに夢中になって、あいつのこと、ほったらかしのままだった。私は慌ててタルトを飲み下すと、 「───あ、ごめん、ごめんね」 と謝る。あいつはそれでも、いつもと全く変わらない調子で、 「───何で謝んだよ?別にいいよ、気にしねえからよ」 相変わらず、窓の外を見たまま、彼はそう告げた。単純な私はそれだけで、また子供みたいに笑顔に戻って、続きを語り出す。 「そ、そう?良かった。えっと、どこまで話したっけ。あ、そうそう、友達と一緒にね───」 それから、私はまるでBGMのように、延々と話しつづけた。 飽きることなく。ずっと。ずっと。 「へえ、そう」 話すのに少しだけ疲れている時に打たれるあいつの相槌がまた絶妙で、 それを聞くだけで、私の口車に再びエンジンがかかる。 ───かたん。 私はたまに、合間を縫ってアップルタルトとミルクティーを口に運びながら、なおも話しつづける。 「で?どうしたって?」 私は、こうしてあいつに今までの出来事を話すだけで、本当に幸せになれる。 いや、話している事そのものには、意味なんて本当はないんだ。 ───かたん。 また、元の形を失っていくアップルタルト。 「ふーん、そっか」 こうして同じ場所にいて、 同じ空気を吸って、 同じものを見て、 同じお店のものを食べて、 共有しあう。 それだけが、私に幸せを与えてくれているんだ。 「…ああ」 贅沢は言わない。 ただ、こうして、一緒の時間さえ過ごせれば、それだけでいい。 あいつとこうして二人でいるだけで、満たされる。 心の底から、じわ〜っ、てあたたかいものが湧き出てくる。 そりゃあ、ずっと未来の事なんてわからないけれど、 でも、今はこれ以上は何も望まない。 「……………」 ずーっと。ずーっと。 これからも、こうしていようね。 ね。 ─────? あれ。 「………どしたの………?」 ───かたん。 アップルタルトを刻むフォークが、嫌な、鋭い音を立てた。 ふと気づくと、あいつは黙っていた。私の話も、聞いていなかった。 私には、あいつが話をちゃんと聞いているかいないかが、わかる。相槌を打たないからじゃなくて、なんて言うのか、そういう空気でわかるものがあるのだ。今、ちょうどそういう状態だった。あいつは、私の話を聞いていない。そして、何か別の事を考えている。でも、それがどうでもいい、些細な事なら私だって、さすがにちょっとムッときたりもするけれど、今回は違うようだった。表情にさほど差はない。でも、何か、深く考え込んでいるのが、良く分かったんだ。 「───ね、何悩んでるの?」 「悩んでねーよ」 そこで彼は初めて、私の方に視線を移した。顔ごとじゃなく、視線だけ。 「嘘。悩んでるよ。私わかるもん。 ね、言ってよ。力になれるかもしれない」 「そういうんじゃ───ねーんだよ」 再び、視線が外される。 「じゃ、どんなの?教えてよ。 教えてくれないとわからないでしょ?」 「─────。」 「ね、言ってよ」 「─────」 「ねえ」 「─────………」 「……………」 「……………」 あいつは、それきり口を閉じた。 私も、それ以上口を開けない。 私は仕方なく、アップルタルトに手を伸ばす。 ───かたん。 ───かたん。 ───かたん。 少しずつ、少しずつ切り取られていくアップルタルト。 元の形を少しずつ、少しずつ失っていくアップルタルト。 何だろう、何なんだろう、この空気。この雰囲気。 あいつ、何を悩んでいるのかな。 何を考えているのかな。 何を言おうとしてるのかな。 何を伝えようとしてるのかな。 かたん。かたん。かたん。かたん。 フォークとお皿が奏でる乾いた音は、不規則な時計の針の音のようだった。 不快だ。不快。 「──────あのよ」 なんとなく。 なんとなくなんだけれど。 このとき あいつが なにを いおうとしてるのか ふしぎと わたしには わかってしまってた。 「───別れようぜ」 ──────────────────────────────────かたん。 「───…ふーん」 私が発した相槌は、私が想像していたよりもずっと普通のものだった。 頭の中も、意外なくらいに落ち着いている。 あいつは、それ以上言葉を続けようとはしなかった。 冷めかけたコーヒーを手に取り、音もなく啜る。 私も、さっきと同じように、アップルタルトを刻んでは、口に運ぶということを繰り返す。 「…それで?」 かたん。 「…それだけ」 かたん。 「ふーん…それだけなんだ」 「…これ以上何言えばいいんだよ」 「別に。何にも言わなくていいよ。聞きたくないもん。 聞いても、きっと嫌な気持ちになるだけだと思うしね。 知らない方がマシ」 かたん。かたん。かたん。 削られていくアップルタルト。 減っていくアップルタルト。 少しずつ、少しずつ減っていくアップルタルト。 「……ねえ。一つ聞いてもいいかな」 「…何?」 「遊びだったの?」 「…んなわけねーじゃん」 「………………………………………。そっか。そう。なら、いいんだ」 かたん。 乾いた音が、一層大きく耳に響き渡った。 「───お前が強い女で良かったよ」 言いながら、あいつは席を立つ。コートを羽織る。私はそれを、止めない。 ──止められない。 「じゃあな」 それだけ言い残すと、あいつは何の躊躇もなく、店の外へと足を向けた。革靴の硬質な音が、遠ざかっていく。私は、あいつの背中を見ようとはしなかった。絶対に、絶対に見てやるもんか、と思っていた。 ───からんからん───。 小さなカウベルの音が、店の中に響き渡った。 あいつは───いなくなった。 残ったものは、テーブルの上のオレンジ色のキャンドル。 あいつが飲みかけのコーヒー。 私が飲んでいたミルクティー。 ほんのひとかけらだけ残った、アップルタルト。 店内のざわめき。 あいつの言葉の余韻。 重い空気。 私。私。私。 ───違う。 本当は、何一つ残っているものなんて、ないんだ。 あいつと私の間に、残っているものなんて、一つもない。 一緒にいる、それだけで満たされていた時間。あいつといる、その一瞬だけで満たされていた時間。それは、あいつがいなくなるだけで、一瞬にして満たしていたもの全てを奪い去ってしまう、麻薬のようなもの。 途方もない倦怠感が、体を包み込んだ。 私は、かろうじて動くその手で、ほんのひとかけらだけ残ったアップルタルトを、二分する。 かたん。 再び響く、乾いた、あの音。 恋は、消耗品なんだろうか。 このアップルタルトみたいに、 元々はきちんとそこにあったはずの形を段々と失っていって、 いつかは消えてしまうものなんだろうか。 ─────────────うっ。 じわりと、不意に歪んだ視界。 私はとっさに顔を天井へと向けて、それが零れ落ちるのを防いだ。 「…何よぉ」 今じゃなくて、いいじゃない。 今日じゃなくて、いいじゃない。 どうして、それを言うのが今日じゃなくちゃいけないの。 どうして今日、それを言っちゃうかな。 「どうしてなのよ」 悔しい。 わからないけど、もう、何にもわからなくなっちゃったけど、 すごく悔しい。 ちくしょう。 ちくしょう。 「ちくしょう!」 私はフォークを勢い良くタルトに突き刺すと、乱暴に口の中へと運んだ。 タルト独特の乾いた食感のせいで、一瞬にして喉が渇く。 私はミルクティーをカップをがちゃり、と音を立てて掴むと、ぐびぐびと一気に飲み干した。 もうひとかけらだけ残った、アップルタルト。 それにもう一度、さっきよりも強く強くフォークを突き刺すと、私は汗で滲むくらいにフォークを握る手に力を込めた。 それを食べるのをためらう、自分がいた。 ────食べられない。 …ふっ…。 「…ふうううぅぅぅぅぅ〜〜〜〜〜……………っ」 私はそのまま、顔をくしゃくしゃにして泣き出してしまった。 わからない、わからない、わからない。 私のことが嫌いになったのか。 私と会えない事情でもできたのか。 私よりも好きな人ができたのか。 何が原因なのか、本当にさっぱりわからない。 もし、私よりも好きな人ができたのだとしたら、それはどんな子なのか。 私よりも可愛い子なのだろうか。 私よりも、あいつ好みの子なのだろうか。 ふと、何故かあのウェイトレスの女の子の顔が浮かんできた。 あの子、可愛いもんなあ。 ああいう子のこと、好きになったのかなあ。 そうしてしばらく泣いていると、ふと、私に近づいてくる気配があった。でも、そちらの方を見る気にはどうしてもなれなかったから、私はタルトにフォークを突き刺したまま、下を向いて涙を流していた。 「あ…あのっ…これ、使ってください…っ」 声でわかる。 あの子だ。そっと盗み見ると、手には、ハンカチみたいなものが握られている。 やめてよ。 こんな時に、優しくなんてしないでよ。 泣きたい時に優しい声をかけられると、余計に涙が溢れてくるんだから。 だから、私に優しくしないでよ。 彼女はハンカチを握ったまま、ただただそこに立ち尽くしていた。 私は、ただただ泣き続けていた。 泣く女と、立ち尽くす女。 オレンジ色のキャンドルに照らされて 地面へ音もなく落下していく私の涙達は、 まるで流れ星のようだった。 季節は変わり、気温も下がり、景色の様子も変わった。 そして、それと同じように、人の心も常に同じものではいられない。 季節は巡り、そして───冬が、やってきた。 End. Copyright (c) 2002 侑史(ユースケ)
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