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私は、ヒルダと何度も逢瀬を重ねるうちに、次第に彼女に惹かれるようになっていった。 いや、その表現は厳密に言うと適切ではない。最初から、惹かれていたのだ。 私たちは他愛ないことを、よく話した。彼女はもの静かに、一生懸命に私の考えや、嗜好や、会話に含まれる私と言う人間をじっくり咀嚼しているようだった。そしてころころとよく笑い、時に苦しそうな表情を浮かべ、怖い顔をすることもままあったが、不器用なくらい率直に、さまざまな顔を見せてくれた。 そうして最後に、澄まして私に言うのだ。 「あなたには、たくさんのたった一人の方がいらっしゃるものね」 やきもちとも、念押しとも言えるこの一言に、私はいつも胸がぎゅうっとなったものだ。軽くあしらえない、嘘もつけない、かといって逃げることもできない。ここまで私を引き留めてくれるのは、彼女くらいのものだ。 彼女はこの一言を言うとき、無表情だからより恐ろしい。白い顔をして、さらりと言ってくれる。その仮面の下には、色んな感情が渦巻いているのだろう。だからこそ私は、彼女だと思ったのだ。 「だから、私は君を選んだんだ」 「フォローになってませんわね」 「わ、わわ。決してヒルダがその一人だといっているわけではないぞ!いや、確かにたった一人の人だが、その他大勢のたった一人とはちがうと言いたいのだ……あれ?それではたった一人ではないな……」 「もう……」 ヒルダは一瞬、困った顔をしたが 「おかしな方ね。あなたは最初から、おかしな方だったわ」 笑うと少女のように幼く見える。 私は自分の失態に、頭を掻いてやりすごした。どうにも、彼女の前だと恰好のつかないことが多い。というより、彼女の方が私よりも一枚も二枚の上手なのだ。ヒルダは頭が良いし、状況もわきまえており、プライドが高く、自分を最優先させてあたりまえだと思っている、とんでもないエゴイストだ。だからこそ私は彼女にぞっこんで、そして降りまわされてしまうのは、惚れた弱みというところだろうか。 私は同時に付き合っていたラベンナとマリーとは別れて、彼女一人と決めた。別れ際に平手をひとつずつ頂戴したが、そんな私を「仕方のない人」と言って、ヒルダはおかしそうに笑っていた。 彼女は私の名前をしきりに知りたがったが、それと同時に『知らない』ことを楽しんでいる風もあり、私もじらすだけじらして身分を明かさずにいた。 深夜の劇場街は、妙な活気に溢れている。 連日あちこちの劇団員たちが、千秋楽を迎えた打ち上げを、どこかで行っているからだ。劇場街には大小さまざまな劇団があり、劇場があり、何かの劇が必ず公演されている。大勢のファンが駆けつけ、夜は飲食店が異様な盛りあがりをみせる。 バクーもロウィーナの劇団が寄る店に、入り浸っていた。 だから、夜は工業区より、劇場区にいることが多い。 私はある夜、劇場区にいるはずのバクーを探していた。 「バクー、バクーはいるかっ!?」 「なんや、シドやないっ?」 「ロウィーナ!!」 「最近見かけへんから、あれからどうなったんやろうって心配してたんやで。それに、こんな時間にどうしたんや」 「バクーを探しているんだ。見かけていないかい?」 「バクーなら、さっき帰ったでえ」 「そうか……」 私はがっくりと肩を落とした。 今夜ばかりはどうしても、バクーに相談に乗ってもらいたいことがあったのだ。仕方がない、出なおすしかないなあと顔をあげたら、ロウィーナが酔っ払い特有のとろんとした顔で私を見ていた。 「どないしたんや。らしくないぞ!」 「どうもこうも……」 「ウチに話してみい?シドがふぬけてたら、ウチもなんか、がっかりやもん。ちゃあんと聞いたる。ウチが相談役じゃあ、役不足やなんて、寂しいことは言いっこなしやでっ!」 「ロウィーナは元気だな、いつも」 私は眩しい彼女の笑顔を見て、少しほっとした。 彼女の笑顔は突き抜けるように爽やかで、女優として成功しているのも頷ける。 しかし彼女は、私のその一言に急に顔を曇らせると、さびしそうに私を見つめた。 何か言いたげに口を開きかけたが、周りを見て、柔らかく笑う。 「店、でえへんか?ここじゃあ、目立ちすぎるわ」 私たちは店を出て、しばらく歩いた。 何も言わないでも、一緒に過ごしてきた時間の分だけ、沈黙も心地よい。夜の散歩もなかなかいいものだと、脈絡のない発見に、私は小さな感動を覚えたいた。点在する街灯が、ロマンチックなムードをかもし出している。 美しい女性と二人きり。 数少ない女の友人とは言え、美しい女性にはかわりない。 「それで?」 ロウィーナは噴水に腰掛けて、体を前後に揺らしていた。 「どないしたんや」 「ロウィーナに話すのは、さすがに気が引けるな……」 私は空を見上げて、呟いた。 「ええやんか、別に。ウチをバクーと思って、話してみい」 「ああ……、そうか。そうだな……」 何から説明したら良いのか、頭のなかでぐるっと一巡して、私は最初からすべてを彼女に打ち明けることにした。 「ヒルダという女性と、付き合っているんだ」 「例の、たった一人の人?まだ続いてるんや、すごいやん!!新記録とちゃう?まずはおめでとうやな」 「すごいだろう?実際、あんなに私を引きつけてやまない女性は、他にいないよ。賢いし、綺麗だし、気高く、可愛らしく、凛々しい。ああ、彼女の素晴らしさは形容詞をいくつならべても、しっくりくるようで、まだ足りないような気がするよ、ロウィーナ」 「ぞっこんやなあ」 彼女は呆れたように笑った。 「今のあんたの顔、えらい幸せそうやで。良かったな、ウチも安心や」 「だけどさ、それが困ったことになって……」 「困ったこと?」 「ああ、ヒルダにはフィアンセがいるらしいんだ」 「フィアンセ……!?それは……、大変やなあ」 口にしながら、私は頭を抱えた。 そう、あの気丈で美しい女性に、なんとフィアンセがいたのだ。それも私はすっかり知らなくて、突然彼女の口から聞かされたときは、心臓が止まるかと思った。フィアンセなんて、私の計算外だった。彼女は何を思って、その事実を私に告げたのだろうか。とても表情豊かな女性だったが、コントロールできないレベルの感情が押し寄せると、途端に無表情になるから、肝心なことが分からないのだ。 「いい家のお嬢さんらしくてね……、もうほとんど決定事項らしい」 自然にため息がもれる。 「でも、せやったら別に迷うことあらへんのんと違う?リンドブルムの王子さまなんやから。シドが王子様として一声かけたら、それですむことやないの?身分違いでもないんやし、誰も反対せえへんやろう?」 「ロウィーナ……、そんなに簡単じゃないんだよ。いろいろあってね。私はただ、彼女に私の側にいて欲しかっただけなんだが、あの純粋な女性を、果たして私の思いのためだけに女王の椅子に縛り付けてよいものか分からないんだ。いや、彼女は女王になっても充分にその務めを果たせるよ。それは分かっているんだ。ただあの自由で、自分が誰よりも大切な女性を縛ってしまうのではないかなと、そう思うとたまらない。私は王子だからこそ、無責任なことができない。それに今になっておかしなものだが、どこまで私に付き合ってくれるのか謎でね。彼女のフィアンセと、彼女の関係がどんなものか、私は知らないし。ああそうさ、何より彼女を失ってしまうのが怖いのだ。私はもう、戻れないところまで来てしまっているから」 「なんや、複雑やね……」 「そう、複雑なんだ。私のほうも、両親がお見合いをしろとうるさく言われていてね。それで城に閉じ込められていたのさ」 「閉じ……」 「彼女と会いたくても、叶わない。でもどうしようもなく会いたくて、それでようやく探し当てた抜け道を通って、この時間に城を抜け出して来たんだ」 「ほな、城に戻られへんなあ……。戻ったら、閉じ込められてお見合いか……。せやけど、この後どないすんの?」 「彼女に会う」 「会うって言っても、彼女の家もいいお家なんやろう?そうやすやすと入られへんやろうっ!」 「そうなんだ。ロウィーナ、どうすればいいと思う?」 「どうすればって……。ああ、なんやむかついてきたわ。あんた、こないウジウジ悩むやつやったんかっ!?そんなん、両親を説得して、彼女の家にも説得に行って、駄目やったら駆け落ちでも、なんでも、やったらええやんかっ!?」 ロウィーナは眉間に皺を寄せて「アホらし」と呟くと、立ちあがった。 (アホらしい?) 私は思わず、彼女を軽蔑した。 この時ほど、女が愚かだと感じたことはない。 (どっちがアホだっ!駆け落ちだって!?そんな夢物語、卓上の空論じゃないかっ。実際にそんなこと、できるわけがない。母さまや、父さまや、ましてや貴族たちにとっては、私たちなど青二才にすぎないのに……。わたしたちなど、ひと捻りでつぶされるというのに……っ!!) 私は立ちあがった彼女を見上げて、耐えきれず罵った。 「そんなものっ!!できたらとっくにやっているさっ!駆け落ちだって、考えたさっ!!だけど私は、ロウィーナのように身軽に国を飛び越えるわけにはいかないんだっ!!国外に逃げたところで、すぐに捕まるんだからなっ。それどころか、リンドブルムの王子という身分を他国に悪用される事だって考えられる。城からは出られない、彼女にはフィアンセがいる、そこに私にもお見合いの話しだ!私だって進退きわまっているから、こうやってバクーに相談にきたんだよっ!!ああ、俺はどうしたらいいんだ、誰か教えてくれよ……っ!!」 惨めだった。 涙が零れるほど、惨めだった。 一人の女性も思い通りにできない、一人の女性すら幸せにできない、自分が本当に惨めだった。何が『愛が全て』だ。それこそ、卓上の空論じゃないか……。 私は頭を抱えて、はらはらと地に落ちる涙をそのままに、泣いてやろうと思った。誰に構うもんか。今日くらい、自由に泣かせて欲しかった。 「シド……。泣いてるんか……」 「……」 「ごめんな……」 ロウィーナは私の前にしゃがんで、私が抱えている手をそっとほどいた。 滂沱の涙の滝が、夜空の下にあわらになる。 彼女は私の手を彼女の体に沿わせ、私の両頬をひやりとした手で包むと、私に口付けた。 一回、二回、三回……。 なんども口付けて、慰めようとしてくれる彼女を、勇気付けてくれようとする彼女を、私はすがりつくように抱きしめた。 「ロウィーナ……」 「な、シド。今夜は一緒に寝よ?」 「……は?」 「ウチは根なし草や。一晩くらい、気にせえへん」 「今の私に、冗談は通じないぞ」 「そんなん、承知や。自分が何をいうてるのか、よう分かってる。……バクーの気持ちも……、よう分かっとる。けどな、それはウチとバクーの問題であって、ウチとシドはまた別なんやで?だから今夜は夢の夜なんや。明日になったら、全部きれいに忘れる。シドはなんも気にせんと、ウチを抱いてくれたら、ええよ。だから、帰ろう。ほら、立って……」 翌朝、ロウィーナのベッドで目が覚めた。 妙に頭がすっきりとしている。 私の抱え込んでいた毒素を、ロウィーナが吸い取ってくれたということだろうか。それとも、単純に空が晴れ渡っているせいか? とにかく、とまどってばかりいたが、今なら冷静に振り返ることが出きる。 自業自得、というところだろうか。よくよく考えると、今の状況は自分が招いているじゃないか。私は無意識と言っていいほど、結婚からは逃げてきたが。こうなったら、そうも言っていられない。 このままでは、ヒルダが、あの愛しいヒルダが私の元から去っていってしまう! 私は初めて彼女に会ったときのように、階段を上り詰める前に彼女を呼びとめなくてはならないのだ。せいいっぱい声を張り上げて、呼びとめなくてはならないのだ。彼女に、私の思いが通じるように。彼女を、この流れから引きとめるために。 でなければ、私たちは周囲の思惑に乗せられて、もう後戻りのできないところまで過ぎてしまうだろう。 今という時間に甘んじている余裕はもうない。 それが私の現実だ。 ラブ、イズオール。貫いてやるさ。 誰に、なんと言われようとも、たとえ彼女に拒絶されようとも。 それが私の、最後の一線。砦だった。 私はロウィーナを見た。 安らかな寝顔。 私は彼女がいて良かったなと、つくづくそう思う。 彼女ほど私の想いに敏感で、私のことを理解してくれている女性はいない。彼女は私にとって、最高の友人。世界で唯一の、女友達。ヒルダとは違った意味で、得がたい存在だった。 (彼女が私のたった一人の人だったら……) 想像しかけてやめた。 感情とは嘘がつけない生き物のようだ。 私にとって彼女は、友達以上のものは何もないのだ。 だから今度のことは、誰かに対して罪悪感をともなうような類のものではない。少なくとも、私にとっては。それはあくまで友情の延長線上にあるもので、親しい友人が仲良くたわむれる、そのひとつなのだ。彼女もそれを分かってそうしていたし、だから罪悪感を抱くことは、むしろそれ以外の感情を認めてしまうことに他ならない。それを認めてしまったら……私は一生、後悔することになるだろうな。 なぜなら、私はもう二度と彼女に会わないと、心に決めてしまっていたから。 私はベッドから這い出すと、手早く服を着込んだ。 そして、すやすやと寝息をたてる彼女のおでこに軽くキスをする。 「ありがとう。そして、さようならだ、ロウィーナ」 Copyright (c) 2002 さく
■あとがき■ |